[幻の女]
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かつてアリサは、兄である慶の手により、かなり酷い虐待を日常的に加えられており、兄の存在はトラウマとなっていた。
以前、俺に伴われて郷里に戻った折には、実家に近付いただけでパニック障害と言うのだろうか?過呼吸の発作を起していた

それ程までに慶の存在は恐怖の対象であり、その実物が目の前に現われ、アリサはショックを受けていた様子だった。
今にもへたり込みそうな身体を権さんに支えられたアリサに俺は「大丈夫か?」と声を掛けた。
声に反応して俺の方を見たアリサは、血塗れの俺の姿を見て一瞬、貧血でも起したのか膝がガクッと折れた。
また過呼吸の発作でも起していたのか、小刻みで苦しそうな息をしながら、権さんの腕を払ってフラフラと俺の方に歩いて来た。
アリサは膝を着き、涙を流しながら俺の両頬に触れると「酷い・・・兄さんが、やったの?私のせい?」と言って、俯いたまま黙り込んだ。
重い空気の室内に聞こえるのはアリサの苦しそうな呼吸だけで、誰も口を開こうとはしなかった。
やがて、アリサの呼吸は落ち着いてきた。
アリサが俺の頬から手を離したので『大丈夫か?』と声を掛けようとした瞬間、彼女はボソッと何かを呟いてフラフラと立ち上がった。
立ち上がり、テーブルの上に並べられた慶の所持していたナイフの一本を取り上げると、般若の形相で「殺してやる!」と叫んで慶に襲い掛かった。

徐と文が慌ててアリサを取り押さえた。
ナイフを取り上げられてもアリサの興奮は収まらず、履いてたパンプスを慶に投げつけた。
傷のせいか、医者に注射された薬のせいかはわからないが、熱に浮かされたような状態になっていた俺は重い身体を引き摺るように、座っていたパイプ椅子から立ち上がった。
俺は、徐に後ろから捕まえられ、慶から引き離されたアリサの頬に平手打ちを入れた。
「俺は大丈夫だから、落ち着け!」、そう言うと、アリサは子供のようにわんわん声を上げて泣き始めた。
アリサが泣き止んだ所で、「10年振り?いや、もっとか?久々の再会だろ?言いたい事があったら言ってやりな。コイツもお前に言いたい事があるらしい」
熱が上がってきたらしく、緊張が抜けて立っていられなくなった俺は床に座り込み、壁に寄りかかった。
慶とアリサの会話は暫く続いたが、意識が朦朧としていた俺には話の内容は届いてこなかった。
暖房を入れ、権さんが毛布を掛けてくれていたが、それでもひたすら寒かった事だけを覚えている。
やがて、話が終わったのだろう、権さんが俺の肩を揺すって「おい、大丈夫か?」と声を掛けてきた。
文が俺に「コイツはどうする?」と聞いてきた。
俺はアリサと慶を見た。
慶は「煮るなり焼くなり好きにするがいい。覚悟は出来てる」と言った。
俺は権さんの顔を見てから「二度と俺達の前に現われるな。警察に出頭するなり、逃げるなり勝手にしろ。次は無い」と言った。
徐が慶の手足を縛めていたタイラップを外すと、慶はヨロヨロと立ち上がった。

アリサと慶が何を話したのかは判らなかったが、アリサはもう怯えてはいなかった。
慶のアリサを見る目も穏やかだった。
去り際に慶が言った。
「優・・・いや、アリサ。お前は、自分に降りかかる悪意に抵抗する事も無く、ただ流されてきた。
さっき、俺にナイフを向けたのが自分でした初めての反撃だろ?
お前が、自分自身の力で立ち向かわなければ、お前自身だけじゃなく、その男も死ぬぞ」
そう言うと、何処にどうやって隠していたのか、一本のナイフを取り出し、『餞別だ』と言ってアリサに投げ渡した。
ナイフに詳しい文の話では、ラブレスの「ドロップハンター」、ブレードの両面に裸の女が表裏刻印された「ダブルヌード」と呼ばれるナイフマニア垂涎の珍品らしい。
骨まで達した顔面の傷が膿み始めていた俺は高熱を発し、キムさんの知り合いの病院の個室に1週間ほど入院する羽目になった。
顔面の傷はケロイド状に盛り上がり、そのまま残った。
退院した俺は、権さんに「今は彼女の為にならない」と言われ、アリサの部屋ではなく、元いたアパートの部屋に戻った。
入院中、アリサ達は見舞いに訪れたが、微妙な空気が流れていて、退院の連絡はしたが、その後アリサとは連絡を取れずにいた。
アリサたち兄妹が何を話していたのかは、権さんも、文や徐も話そうとはせず、聞くなと言う態度がはっきりしていたので、俺に知る術は無かった。
アリサと連絡を取らなくては・・・そう思いながらもズルズルと時間が経って行った。
そんなある雨の日の夜、アリサから俺の携帯に着信が入った。

着信が入る瞬間、俺の背筋には危険を知らせる『悪寒』が走っていた。
電話越しのアリサの声は、電波のせいか、喉の調子でも悪いのか・・・いつもと少し違っていたと思う。
俺はアリサの「今すぐ会いたい。出てこれる?」と言う言葉に「判った」と答えてアパートを出た。
アパートから細い路地を抜けて大通りに出た。
歩行者信号が青に変わり横断歩道を渡り始めた瞬間、俺は眩しい光に照らされた。
ワンボックスカーが猛烈なスピードで突っ込んでくる。
俺は、はっきりと見た。
運転席で女が・・・ノリコが笑っていた。
俺の身体は金縛りにあったかのように硬直した。
その瞬間、俺は強い力で背中を押された。
続いて、激しい衝撃に弾き飛ばされる感覚。
硬くて冷たい、濡れたアスファルトの感触と、ドクッ、ドクッという熱い感覚を頬に感じながら、俺は闇の底に沈んで行った。

続く