[幻の女]
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エレベーターで1階まで下り、エントランスを出た。
冷たい空気が肌を突き刺す。
俺は辺りを見回し、駐車場へと足を運んだ。
誰もいない、そう思った瞬間、背後から人の気配と足音が聞こえた。
振り返った瞬間、どんっと激しい衝撃を受けた。
男がナイフを腰だめして体当たりしてきたらしい。
ナイフの先端がチョッキを僅かに突き破り、腹の皮膚を裂いたようだ。
鈍い痛みと流れ出る血の感触を俺は感じた。
防弾・防刃チョッキを着込んでなければ一撃で終わっていただろう。
刺された瞬間に放った右フックが男の顎を捕らえたようだ。
サップグローブの重い打撃に男も吹っ飛んだ。
だが、男の手にはまだナイフが握られていた。
脳震盪でも起していたのだろう、フラフラと立ち上がろうとした男の右手首を俺は安全靴の爪先で狙い澄まして蹴り抜いた。
男の手からナイフが吹っ飛んだ。手首の骨は完全に折れていただろう。
俺は畳み掛けるように男の顎を蹴り上げ、男の腹に踵を踏み下ろした。
男は海老のように丸まって悶絶した。

俺は蹴り飛ばされたナイフを拾って男に近付いた。
ナイフはダガーナイフ。ガーバーのマークUという、名前だけは聞いたことのあるものだった。
右前腕の手首に近い部分が僅かに曲がっており、骨折は明らかだった。
右腕の骨折と腹部のダメージに俺は油断していた。
男の顔を見ようと近付いた瞬間、ヤツの左手が横に動いた。
俺は咄嗟に避けたが額に引っ掻かれたような『ガリッ』という衝撃を感じ、流れ出る血に俺の左目の視界は完全に塞がれた。
逆上した俺は今度は顔面を踵で無茶苦茶に蹴り付けた。
コンクリートに頭のぶつかる鈍い音が聞こえた。男はピクリとも動かない。
殺してしまったかもしれない・・・
俺は血でヌルヌルとした手で携帯電話を取り出し、キムさんの事務所に電話を掛けた。
駆けつけた車で俺と男はキムさんの事務所へと運ばれた。
俺の腹の傷は深さ1cm程だったが、切られた左額の傷は骨まで達していた。
カランビットと呼ばれる特殊な形状のナイフだった為に、思いのほか深く食い込んだようだ。
男のダメージは激しかったが、命に別状はないようだった。
呼びつけられた医者が俺の傷を縫い終わると、殺気立った徐と文が男にバケツで水をぶっ掛けた。

水で血が流されると、鼻は潰れ、前歯の殆どが折れて痣だらけだったが、それでも男がかなり整った容姿をしているのがわかった。
「鬼相」とでも言うのか、怒りとも憎しみとも言えない険しい表情がなければ、人の目を引く「美形」と言えるだろう。
色白で特徴のある女顔・・・似ている。。。
「・・・いいナイフを持ってるじゃないか。辻斬りの真似事か?
俺の仲間は運良く助かったが、殺る気満々だったようだな。お前、コイツに何の恨みがある?
お前のやり口には躊躇いってものが無い。何故この男を殺そうとした?」
文がそう言うと、横にいた徐が男の腹に蹴りを入れた。
男は背中を丸め呻いたが、その目には怯みや恐れは無かった。
むしろ、狂った眼光にその場にいた者は圧倒された。
「北見と根本を襲ったのもお前だな?・・・お前、星野 慶だな?」
俺が男にそう問うと、男は血の塊と言った感じの唾を吐き捨てた。肯定ということだろう。
文と徐は『?』な顔をしていた。
「こいつはアリサの、いや、星野 優の実の兄貴だ。実の『弟』に虐待を加えていた鬼畜の変態野郎だよ」
「何故今更姿を現した?逆恨みか何かか?」
すると、慶は気でも狂ったかのように馬鹿笑いを始めた。
「今更だと?俺はお前がアイツと知り合う前から、そう、女になる前からアイツの事を見ていたんだよ。何故だか判るか?」

「・・・まさか、守ってたとでも言うのか?」
無言で答える慶に徐が口を挟んだ。
「待て、待て、待て!それじゃ話の筋が通らねえだろ?
俺が言うのも何だが、あのネエちゃんを手前がぶっ殺されそうになっても体張って、ここまで守ろうってヤツはコイツしかいねえぞ?
お前が、あの女をクソ共から守りたいと言うなら何でコイツをぶっ殺さなきゃならねえんだ?」
慶は苦笑しながら答えた。
「お前らには判らないだろうなぁ。それはな、この男のせいでアイツが死ぬからだよ」
「ふざけるな!」と食って掛かる徐を制して俺は慶に尋ねた。
「それは、ノリコの事か?」
「その女が誰かは知らないが、アイツを手に掛けるのはお前自身だよ。俺達兄弟には判るんだ。
『勘』と言うよりはもう少しハッキリした感覚だ。アンタにも有るんだろう?
そうでなければ、俺はアンタを確実にブッ殺せていたはずだ。
アンタ自身、信じられないかも知れないが、アイツを殺すのはアンタだよ。
アイツは生まれた時からどうしようもないクズ共や、色んな不幸を呼び込んで来た。いや、生まれてきた事自体が不幸といえる疫病神だ。
酷い目や危険な目に嫌になるくらい遭って来て、そういうものに対する勘は俺やアンタより数段鋭いはずだ。
判ってるはずだよ。アンタが自分にとってどれだけ危険な存在か。アイツはこっちに向ってる。本人に聞いてみるがいい」

文と徐は顔を見合わせた。
事務所に詰めていた二人は俺に呼び出され、俺達を事務所に運んで医者を呼んだが、アリサに連絡はしていなかった。
しかし、5分ほどするとインターホンが鳴り、権さんがアリサを伴って現われた。
室内に入ってきたアリサは慶の姿を見て凍りついた。

続く