[幻の女]
前頁

帰宅して玄関のドアを開けると、部屋の中は真っ暗だった。
いつも夕食を用意して待っているアリサの姿がリビングにもダイニングにも見えない。
俺は寝室に向った。
寝室のドアを開けると、ベッドの上で毛布を被ったアリサが膝を抱えて震えていた。
只ならぬ様子に俺はアリサに駆け寄って聞いた。「どうした?何があった?」
アリサは俺に抱きついて、震えながら「判らない。でも、誰かに見られてる、強い悪意を感じるの。怖い」と言った。
俺は部屋中の明かりを点け、ダイニングの席にアリサを座らせて夕食を作り始めた。
作りながら俺は考えた。
絶対におかしい。
アリサの怯え方は普通じゃない。
だけど、アリサがあれ程までに怯える「視線」や「悪意」なら、俺にも何か感じられるはずだ。
アリサの恐怖は本物だ。だとすれば、俺の勘や感覚がどこかで狂ってる。
不味いな・・・

俺は自分の「嗅覚」に確信が持てなくなった。
アリサを、いや、自分自身の身さえ守れる確信のなくなった俺は極度にイラ付いていた。
そんな俺にノリコから誘いの電話が頻繁に入るようになった。
怯えるアリサを放置する事は出来ないし、俺自身が北見や根本を襲った襲撃者の影に怯えてピリピリしていて、そんな気分ではなかった。
そんな俺の神経を逆撫でするように、ノリコの電話の頻度は上がり、誘い言葉も際どくなって行った。
我慢できなくなった俺は「いい加減にしろ!」と一喝して、ノリコの番号を着信拒否にした。
ノリコの電話を着信拒否にして、俺のイラ付きの原因は1つ取り除かれた。
しかし、アリサのうなされ方は夜毎に酷くなっていった。
その晩もアリサは酷くうなされていた。
神経過敏になっていた俺は眠れずにいた。
だが、悪夢にうなされていたアリサが突然目を開け、上体を起き上がらせた。
アリサが起き上がったのとほぼ同時だった。
バイブレーターにしてホルダーに刺してあった俺の携帯が鳴った。
俺の背中にゾクッと悪寒が走った。
この悪寒は危険を知らせる俺の「嗅覚」そのものだった。

俺は携帯の方を見た。
有り得ない事に、着信拒否にしたはずのノリコからだった。
あれほどしつこかったノリコの電話もアリサと一緒の時には掛かって来た事は無かった。
まずい、この電話に出てはいけない・・・そう思った瞬間、アリサがホルダーから俺の携帯を取り上げ、電話に出た。
電話に出たアリサは真夜中にも関わらず大声で叫んだ「アンタなんかに彼は渡さない、この人は私が守る!」
そう言うと携帯を投げ捨てて、俺に抱きついて子供のように声を上げて泣いた。
俺はアリサを宥めると、表示されたノリコの携帯の番号に電話をかけた。
しかし、帰ってきたのは「この電話番号は使われておりません・・・」というアナウンスだけだった。
俺の背中に冷たいものが走った・・・
俺はアリサを伴ってマサさんの許を訪れた。
だが、マサさんやキムさんにも、俺やアリサに向けられた呪詛や念、祟りといったものは感じられないと言う事だった。
キムさんが「私の方で調べてみる。何かあったら直ぐに知らせろ。いつでも人を行かせられるように手配しておく」と言って、俺達は別れた。
北見や根本は「物理的」に暴行を受け傷を負っている。しかし、その後の魂を抜かれたような精神状態は霊的・呪術的なものを感じさせた。
俺にはもう、訳が判らなくなっていた・・・

アリサは悪夢の中で何を見たのか、電話でノリコに何を言われたのかを俺に話そうとはしなかった。
問い詰めた所でアリサは話さないだろうし、話さないのには彼女なりの理由があったのだろう。
聞いた所で、こちらからノリコに接触する術がない以上、俺にはどうしようもなかった。
ただ、キムさんの知り合いの「女霊能者」が作ってくれたと言う護符のお陰か、アリサの悪夢はどうやら収まった様子だった。
俺は、俺とアリサのために動いてくれている、キムさんの結果を待つしか成す術が無かった。

キムさんの連絡を待ち続けて何日経っただろうか。
恐ろしいほど静かな晩だった。
暗闇の中で俺は何者かの視線を感じて目を覚ました。誰かが俺を呼んでいる?
激しい敵意、殺気が俺を押しつぶさんばかりに部屋に満ちていた。
濃密で強烈な「害意」だったが、アリサは全く反応していなかった。
俺はベッドから抜け出し服を着替えた。
ジャケットの下には、権さんに渡されたイスラエル製の防弾・防刃チョッキを着込んだ。
スーツの下に着ても目立たないほど薄手だが、38口径の拳銃弾も貫通させないと言う優れものだ。
手には愛用のサップグローブを嵌め、鉄板入りの「安全靴」を履いた。
俺は部屋を出た。
ドアが閉まり、施錠の音が止むとマンションの廊下は空気が凍りついたかのように静かだった。

続く