[逆さの樵面]
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かつて日野草四郎篤矩によって神楽を伝承された4家は、その後も
大いに栄えたと伝えられている。
ところが、姑曰く土谷家はその4家よりも古い神楽を伝えられて
いるという。
日野家と同じ客人(まろうど)であった土谷家こそが、日野家以前に
この千羽に神楽を伝え、千羽神楽の宗家であったのだと。
ところがあらたに入ってきた遠来の神楽にその立場を追われ、山姫
などいくつかの演目と面、そして縁起まで奪われてしまったのだと。
そしてこの樵面こそ、土谷家が今はいずことも知れない異郷より
携えて来た、祖先伝来の面なのだと。
それを日野家由来とする資料は、ことごとく糊塗されたものだと。
そうした経緯があるためか、4家のみによる神楽舞の伝承が壊れた
のちも、土谷家からは舞太夫を出さないという仕来りがあった。
しかし江戸時代の末期に、とうとう土谷家の人間が舞太夫に選ばれ
ることとなった。
土谷甚平は迷わず樵面を所望したという。
ところが樵面を着けた夜、甚平は葉桜の下に狂い、村中を走った。
そしてこの世のものとは思えない声でこう叫んだ。
「土モ稲モ枯レ果テヨ。沢モ井戸モ枯レ果テヨ」
そして面の上から自らの両目を釘で打ち、村境の崖から躍り出て
死んだという。
死骸から面を外した甚平の姉は、密かに面を持ち去り、土谷家の
奥座敷の柱に逆さまにして打ちつけた。
その年より村は未曾有の飢饉に見舞われ、また「戸口に影が立った家」
にはいわれ無き死人が出たという。
樵面は樵でありながら神そのものであり、その神に別の神の言葉を
喋らせ、別の神の舞を踏ませたことが、面の怒りをぐつぐつと
長い年月に亘って煮立たせていたのだという。
そして甚平の体を借りて呪詛を村中に撒き散らせたのだ。
いわば日野流神楽への土谷流神楽からの復讐だった。
その樵面は未だに土谷家の奥座敷にて、この村を呪い続けている・・・
姑の口から忌まわしい恩讐の話を聞かされた父たちは、その場に
凍りついたままだったといいます。
憑き物がわずかに取れた顔で、姑は肩の力を抜きました。
「太郎さんはいけんよ。次は命がないけんね」
その言葉を聞いて、太夫や職員は色めきました。
姑はつまりこう言っているのです。
「太郎さんの目が見えないのは、むかし樵面を取りに座敷に入った
からだ」と。
結局一堂は土谷の屋敷から離れました。
そして近くの神社に寄りあって、どうしたらいいのか協議をしました。
壁を壊して座敷の裏側から面を外してはどうかという意見が出ました
が、土谷家の人間を説得できない限りそんな無法はできないという
結論に至るばかりです。
さりとてこのままにはしておけない、と頭を抱えていたとき、一人の
老人が寄り合い所を訪れました。
続く