[逆さの樵面]
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言い争いは平行線だったようですが、とりあえず土谷家側が折れて
父たちを屋敷へあげてくれました。
歴史ある旧家だけあって広い畳敷きの部屋がいくつもあり、長い廊下
を通って、玄関からは最奥にあたる山側の奥座敷の前で止まりました。
どんな秘密の隠し場所に封じ込められていたのだろう、と想像して
いた父は拍子抜けしたといいます。
姑が奥座敷の襖を開けたその向こうに、樵面の黒い顔が見えたのです。
しかしその瞬間、集まった人々の間に「おお」という畏怖にも似た
響きの声が上がりました。
「決して中へは入ってはなりません」と姑は言い、悪いことは言わな
いからこのままお引取りを、と囁いたのです。

明かりもなく暗い座敷の奥から、どす黒い妖気のようなものが廊下
まで漂ってきていたと、父は言います。
締め切られていた奥座敷の暗がりの中、奥の中央に位置する大きな柱
に樵面は掛けられていました。
しかしその顔は天地が逆、つまり逆さまに掛けられているのです。
しかも柱に掛けられていると見えたのは、目が暗がりに慣れてくる
とそうではないことに気づきます。
面の両目の部分が釘で打たれ、柱に深く打ち留められていたのです。
「なんということをするのだ」
と古参の舞太夫が姑に詰め寄るも、教育委員会の職員に抑えられまし
た。
「とにかくあれを外します」と職員が言うと、姑は強い口調で
「目が潰れてもですか」

父は耐え難い悪寒に襲われていました。
姑曰く、あの天地を逆さにして釘を目に打たれた面は、強力な呪い
を撒き散らしていると。そしてこの座敷に上がった人間は、ことごと
く失明するのだと言うのです。
「バカバカしい」と言って座敷に入ろうとする者はいませんでした。
古い神楽面には力があると、信じているというより、理解している
のです。だからこそ、翁面を小さな行李に入れ、また「1年使わない
と表情が変わる」といわれる般若面の手入れを欠かさないのです。
入らずには面を外せない。
入れば失明する。
だからこそ、土谷家ではこの奥座敷の樵面を放置していたわけです。
調度品の類もない畳敷きの座敷は埃と煤で覆われていました。
明治の前よりこのままだと、姑は言いました。
何か方法はないかと考えていた太夫の一人が、
「あんた、向かいの太郎坊に取りに入らせたらよかろう」
と手を打ちました。

「あれはめくらだから」と。
父はなるほど、と思いました。
確かに土谷家の隣家の息子は目が見えない。
彼に面を外させに行かせたらいいのだ。
ところが、姑は暗い顔で首を振ります。
そしてこの樵面の縁起を訥々と語り始めたのです。

続く