[逆さの樵面]
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これが失われた3つの舞が千羽神楽に取り戻された事の次第で、未
だに千羽に語り継がれる縁起なのです。
その夜、明弘氏の夢に現れた人物は高橋家の5代前の当主であった
高橋重次郎氏ではないかと言われています。
高橋家の大刀自は当時100に近い歳であったといわれていますが、
明弘氏が披露した舞を見たとき、幼いころに見た曽祖父の舞だと
言って泣き崩れたと伝えられています。

さて、失われた4つの舞のうち3つまでは復活しました。
『山姫の舞』『火荒神の舞』『萩の舞』・・・
『千羽山譚』によると残る一つは『樵の舞』とあります。
しかし高橋家の土蔵からはこの舞に使われる樵面が発見されず、
『樵の舞』だけは亡失されたままでした。
樵面は熊野より落着した日野草四郎篤矩が持参した面とされ、
明応七年(1498年)の銘が入っていたと、資料にはあります。
一時期、前述の翁面と同一視されていたこともあったようですが、
翁面には永禄五年(1562年)の銘があり、別の面であると
認識されるようになっています。

時は下って昭和40年。
私の父が舞太夫としての手解きを受けたばかりの頃です。
大正時代に高橋家より面が見つかって以来、役場を中心に各旧家の
協力の下、あれだけ捜索されても発見されなかった樵面が、あっさ
りと出て来たのです。
人々を震え上がらせる呪いとともに・・・

当時、在村の建設会社に勤務していた父は職場で「樵面発見」の報
を聞きました。
社長がもともと舞太夫で、父に神楽舞を勧めた本人だったため、早退
を許してもらった父は、さっそく面が見つかったという矢萩集落の
土谷家へと車を走らせました。

もともと山間の千羽でも、特に険しい地形にある矢萩集落は町ほど
露骨ではなかったものの、いわゆる部落差別の対象となるような土地
でした。
父のころにはまだその習慣が残っていて、あまり普段は足を向けたく
ない場所だったといいます。
その集落にある土谷家は、もともと県境の山を越えてやってきた客人
の血筋で、集落では庄屋としての役割を果たしていたようです。
江戸時代から続くといわれるその古い家屋敷に、噂を聞きつけた
幾人かの人が集まっていました。
その家の姑である60年配の女と役場の腕章をつけた男が言い争い
をしており、その間に父は先に来ていた太夫仲間にことのあらましを
教えてもらいました。

どうやら、その日の朝に役場へ匿名の電話が入ったようです。
曰く「樵面を隠している家がある」と。
それは土谷家だ、とだけ言って電話は切られました。
不審な点があるものの、とりあえず教育委員会の職員が土谷家へ向か
い、ことを問いただすと「確かに樵面はある」と認めたのでした。

続く