[赤い仏像]
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それから“紅仏様”が動く気配は無かった。
なるべく近い場所にと寺の横にテントを張る。
秋の山は寒い。
テントに入る頃には辺りは真っ暗になっていた。
長い夜の始まりだ。
俺はテントの中で眠れずにいた。
山は静けさに包まれ、時折鳥の声や虫の音が聞こえる意外は完全に静寂と闇が支配していた。
(罰当たりとは思ったが)外で用を足していると、不意にまた遠吠えを聴き、ビクリとする。
あの犬だろうか。
テントに戻ると吊してある懐中電灯の電池を入れ替え、灯したまま横になった。
しばらく冴えていた目も次第に重くなり、深く深く沈んで行った。
酷い耳鳴りに目を覚ましたのは深夜だった。
携帯を覗くと2:15と表示されている。
ガサ…音がする。
『うっ…!!』
何だこの匂いは…。
いつの間にか辺りは濃い獣の匂いに包まれていた。
懐かしい感じもする匂いに混じって、錆びた鉄の臭いが辺りに充満している。
血の臭いだ。
グルルル…唸り声に体が強張る。
間違いない。
何か居る。
頭を過ぎったのは熊だった。
まずい事になった。
夢を見る前にこんな事になろうとは…。
あれやこれや考えたが、どうしてもこの状況を打開出来る名案は浮かばない。
こうなったらやり過ごすしかない。
俺は息を潜め熊が立ち去るのを待った。
だが、おかしい。
待てども待てども、一向に立ち去る気配はないのだ。
三十分くらい生きた心地のしない時がゆったりと流れた。
次第に恐怖心は好奇心や探究心に変わっていた。
そもそも熊なんか出るのか?ひょっとしたらあの犬かも知れない。
そう考えたら正体も判らない相手に怯えて居るのが馬鹿馬鹿しく思えてきた。
意を決するとジーッとテントを開け、懐中電灯で外を窺った。
何も居ない…?
既に立ち去ったのだろうか?先ほどまであった気配は完全に消えていた。
テントから這い出て辺りを見回す。
やはり何も居ないようだ。
疲れてたのか?
テントに戻ろうと振り向くと…それは居た。
唸り声を懐中電灯で照らす。
化け物だ。
大型犬くらいの大きさ。
熊のような太い足。
形は狛犬のそれに近い。
が、風貌はまるで違う。
顔には六つの飛び出さんばかりに突き出た目玉があり、ギョロギョロと四方八方を見回し。
口は三つ、頭の上と正面と顔面の横に付いていた。
胴体からは人の腕や足が生え不気味にユラユラと蠢いている。
俺は懐中電灯を落とした。
『ミ、ミギュアァァァァ!!』
ミギャーだかオギャーだか判らないが、例えるならそう猫が喧嘩をしてる時の、赤ん坊が泣いてるような鳴き声がこだました。
咄嗟に俺は走り出した。
後ろからは赤ん坊の泣き声と足音が響く。
捕まったら喰われる。
暗い暗い森に駆け込んで行く。
こういう時、人間の力とは恐ろしく思う。
正に飛ぶように枝葉を掻き分け山を下る訳だが、明かりも無い闇の中を、まるでどこにどう木が生えているのか誰かが教えてくれているかのように、ぶつかりもせず縫うように走っていった。
いや…知っていた?
が、途中ふいに足を取られる。
倒れる刹那何かが頭を過ぎる。
全身に衝撃を受け止めながら湿気った土の感触が広がる。
と、同時に土から血なまぐさいような変な匂いも感じた。
どうやらそこだけ草木も無く、僅かに開けているようだった。
痛みをこらえ飛び起きると、再び走り出す。
後ろには赤ん坊の泣き声が迫っている。
途中ワンワン!と吠えられる。
太郎だ。
ワンワン!ワンワン!と吠えている。
グルルルと二匹の唸り声が重なった。
俺は木陰に身を隠し、対峙する獣の様子を窺った。
ギャウン!太郎の弱々しい悲鳴が森に響く。
ボリボリと音が後に続く。
喰っている。
俺は踵を返すと再び走り出した。
また赤ん坊の泣き声が近付いてきた。
どんどんどんどん大きくなる。
オギャーオギャーと泣いている。
息遣いまで聴こえてくる。
次の瞬間!背中に強い衝撃を受け地面に突っ伏した。
『うぅ…』
仰向けに寝返ると、ソレは俺の腹を踏みつけ抑えつける。
もう…駄目…だ。
ギョロギョロとした目が眼前に迫り、俺は気を失った。
目を覚ますと、住職と割烹着のおばさんが俺の顔を覗き込んでいた。
どうやら生きているらしい。
『ん…ここは?』
『おぉ!目が覚めたか!』
住職とおばさんは喜び顔を合わせる。
『俺は…?』
『婆さんが日課の餌やりに行ったらお前が倒れとるのを見付けてな、助けを呼んで今に至ると言う訳だ』
なるほど、助かったらしい。
昨日のアレは…夢?