[怪物 「結」下]
前頁

そんな言い合いを聞きながら、私の脳裏には先週の漢文の授業で先生が教えてくれ
た「シップウにケイソウを知る」という言葉が浮かび上がっていた。確か、強い風
が吹いて初めて風に負けない強い草が見分けられるように、世が乱れて初めて能力
のある人間が頭角を現すというような意味だったはずだ。
昼間には無数の人々が行き来するこの街で、誰もかれも自分たちのささやかな常識
の中で呼吸をしながら暮らしている。それが例え、日陰を選んで歩く犯罪者であっ
たとしても。けれど、そんな街でもこうして夜になれば、常識の殻を破り、この世
のことわりの裏側をすり抜ける奇妙な人間たちが蠢き出す。普段は、お互いに道で
すれ違っても気づかない。それぞれがそれぞれの個人的な世界を生きている。
それが今はこうして、同じ秘密を求めてここにいるのだ。のっぺりとした匿名の仮
面を外して。
私はそのことに言い知れない胸の高鳴りを覚えていた。
「4人もいたら、なにか良い知恵が浮かんできそうなものなのにね」
おばさんがため息をつく。
キャップ女が鼻で笑うように「4人だって? 5人だろ」と指をさした。
みんながそちらを見る。大きな銀杏の木がひとつだけ街灯のそばに立ってる。その
木の幹の裏に隠れるように、白い小さな顔がこちらを覗いていた。
私はそれが生きている人間に思えなくて、髪の毛が逆立つようなショックがあった。
けれどその顔が、驚きの表情を浮かべ、恥ずかしそうに木の裏に隠れたのを見て、
おや? と思う。
「え? あら。女の子?」
おばさんが甲高い声を上げる。
「お、おいおい。いつからいたんだ。全然気づかなかったぞ」と眼鏡の男が呟いて、
額の汗をハンカチで拭う。
「ねぇ、あなた近所の子? こんな遅くに外に出て、だめじゃないの」
おばさんが優しい声で呼び掛けると、顔を半分だけ出した。10歳くらいだろうか。
「あら、この子、外人さんの子どもかしら」
言われて良く見ると、眼球が青く光っている。街灯の光の加減ではないようだ。

「帰った方がいい。ここは危ない」
眼鏡の男が早口でそう言い、近寄ろうとする。女の子はまた木の裏側に隠れた。男
が腕を前に伸ばしながら、回り込もうとする。すると、その子はその動きに沿って
ぐるぐると反対側に回る。
「あれ、なんだこいつ。なに逃げてんだよ、おい」
眼鏡の男が苛立った声を上げるのを、ブランコに揺られながらキャップ女がせせら
笑う。
「あんたロリコン?」
「うるさい」
「ちょっと、やめなさいよ。怯えてるじゃないの」
おばさんが男をなだめる。
「大したものだな。この子、この歳であたしたちと同じモノ見てるんだよ」
キャップ女の口の端が上る。
そんなバカな。こんな小さな子どもが、私と同じことを考えてここまでやって来た
というのだろうか。
そう思ったとき、私の耳がある異変をとらえた。
「し」と誰かが短く言う。
息を呑む私たちの耳に、鳥の鳴き声のようなものが聞こえて来た。
ギャアギャアギャア……
カラスだ。
私はとっさにそう思った。公園の中じゃない。
全員が身構える。
鳴き声は次第に小さくなり、やがて聞こえなくなった。
ブランコが錆びた音を立ててキャップ女が降りて来る。
「なんて言ったと思う?」誰にともなく、そう問い掛ける。
「警戒せよ、だ」
彼女は私の顔を見てそう言った。なぜかデジャヴのようなものを感じた。
足音を殺して、全員が公園の出口に向かう。行動に転じるのが早い。躊躇わない。

続く