[人形]
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「そこで、もう一度この真ん中の女性が抱える人形を見て欲しい」
師匠の言葉に、視線をそこに集中させる。
人形の襟元が、他の女性たちと逆に合せられている。左前だ。銀板写真は左右を逆に写
すので、つまり撮影時には右前だったことになる。
「市松人形としてはこれで正しい。ただ撮り終わったあとの写真が間違っていただけだ。
 だから……」
と言って、師匠はみかっちさんに視線を向け、笑い掛けた。
「キミのあの絵は、この写真の一見左前に見える人形を描いたものなんだ。キミは人
 形を絵に描いたと言いながら、人形を見ていない。奇妙な記憶の混濁があるようだ。
 なぜならそんな人形はもう存在していないんだから」
キャアァー!!
という甲高い金属的な悲鳴が家中に響き渡った。
俺は背筋を凍らせるような衝撃に体を硬直させる。頭を抱えて俯いている礼子さんの口
から出たものにしては、おかしい。まるで家中の壁から反響してきたような声だった。
「その人形がどうしてなくなったのかは知らない。あなたの口からそれが聞けるとも思
 わなけど。戦争で焼けたのか。処分されたのか…… ただあなたの中に棲みついて、
 そこにいる友だちの中にも感染するように侵入したそれは、この世に異様な執着を持
 っているみたいだ。自分の存在を、再び世界と交わらせようとする意思のようなもの
 を感じる。実際に、絵という形で、一度滅びたものが現実に現れたんだから」
ミシミシという嫌な圧迫感が体に迫ってくるようだ。
これは、髪が伸びるだとか、涙を流すだとかいう人形にまつわる怪談と同質のものな
のか?
いや、絶対に違う。
俺は底知れない嫌悪感に体の震えを止めることが出来なかった。

「その人形。あなたの先祖の家業だった写真屋の、これは商売道具のはずだ。だから
 実のところ、一見して左前に見えてはおかしいんだ。衣服だけでなく刀などの道具
 立ても左右逆にしつらえて撮るように、膝に抱く人形だって持ち主に合せるべきだ。
 市松人形はもともと女性や子どもの着せ替え人形なんだ、合せ方を逆にして着せる
 なんて容易いはず。同じ目的でずっと使う人形ならばなおさらそうすべきだ。しか
 し、この写真に残されている姿はそうではない。何故だかわかるかい。それは」
師匠は憂いを帯びたような声で、しかし俺にだけわかる歓喜の音程をその底に隠して
続けた。
「真ん中に写ったものが早死にするという噂のためにこの人形を真ん中に据えるって
 ことと同じ目的のためだ。写真にまつわる穢れをすべて人形に集中させるため、徹
 底した忌み被せが行われている。つまりわざわざ死者の服である左前で写真に写る
 ように、この人形だけは右前のままにされているのさ」
吐き気がした。
師匠につれまわされて今まで見聞きしてきた様々なオカルト的なモノ。それらに接す
る時、しばしば腹の底から滲み出すような吐き気を覚えることがあった。しかしそれ
は大抵の場合、霊的なものというよりも人間の悪意に触れた時だったことを思い出す。
「付喪神っていう思想が日本の風土にはあるけど、古くから人間の身代わりとなるよ
 うな人形の扱いには特に注意が払われていた。しかしこいつは酷いね。その人形に
 蓄積された穢れの行き着く先を誤っていれば、どういうことになるのか想像もつか
 ない」
柱時計の音だけが聞こえる。
静かになった部屋に、畳を擦る音をさせて師匠が俯いたままの礼子さんに近づいた。

「あなたが魅入られた原因は、実にはっきりしている。なくなったはずの人形がこの
 世に影響を及ぼす依り代としたもの。それは真ん中で写ったものの寿命が縮まると
 いう噂と同じくらいポピュラーで、江戸末期から明治にかけて日本人の潜在意識に
 棲み続けた言葉。"写真に写し撮られたものは、魂を抜かれる"という例のあれだ」
師匠は俺の手からもぎ取った写真の人形のあたりを手のひらで覆い隠すようにして
続けた。
「あなたがおばあちゃんから貰ったというこの写真こそが元凶だよ。人形の形骸は滅
んでも、魂は抜かれてここに写し込まれている」
そう言いながら礼子さんの顔を上げさせた。
目は涙で濡れているが、その光に狂気の色はないように思えた。

続く