[人形]
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「これは僕が貰う。いいね」
礼子さんは震えながら何度も頷いた。師匠は呆然とするみかっちさんにも同じように
声を掛け、「あの絵は置かない方がいい。あれも僕が貰う」と宣告する。
そうして最後に俺に笑い掛け、「おまえからは特に貰うものはないな」と言って俺の
背中を思い切りバンと叩いた。
いきなりだったのでむせ込んだが、その背中の痛みが俺の体を硬直させていた”嫌な感じ”
を一瞬忘れさせた。
引き上げようと、師匠は静かに告げた。

その後、礼子さんは糸が切れたようにぐったりと客間のソファーに横たわった。その
顔はしかし、気力と共に憑き物が取れた様に穏やかに見えた。俺たちは礼子さんに心を
残しつつもその大きな家を辞去した。

みかっちさんが青ざめた顔で、それでも殊勝にハンドルを握り元来た道を逆に辿って
いった。
「あんた何者なのよ」
小さな交差点で一時停止しながら掠れたような声でそう言って、横の師匠を覗き見る。
彼女の中で、『gekoちゃんの彼氏』以外の位置づけが生まれたのは間違いないようだ。
その位置づけがどうあるべきか、迷っているのだ。それは俺にしても、出会った頃か
らの課題だった。
「さあ」と気の無い返事だけして師匠は窓の外に目をやった。
車は街なかの駐車場に着いて、俺たちはグループ展の行われているギャラリーに舞い
戻った。
「ちょっと待ってて」と言ってみかっちさんは店内に消えていった。
と、1分も経たない内に「絵がない」と喚きながら飛び出して来た。俺たちも慌てて中
に入る。「どこにもないのよ」
そう言って閑散としたギャラリーの壁に両手を広げて見せた。
確かにない。奥の、照明が少し暗い所に飾ってあったはずの人形の絵がどこにも見当た
らない。
「ねえ、私の人形の絵は? どこかに置いた?」
とみかっちさんは受付にいた二人の、同年齢と思しき女性に声を掛ける。
「人形の絵? 知らない」と二人とも顔を見合わせた。
「あったでしょ、4号の」
畳み掛けるみかっちさんの必死さが相手には伝わらず、二人とも戸惑っているばかりだ。
俺と師匠も絵があったはずのあたりに立って周囲を見回す。
人形の絵の隣はなんの絵だったか。瓶とリンゴの絵だったか、2足の靴の絵だったか……
どうしても思い出せない。しかし、壁に飾られた作品が並んでいる様子を見ると、他の
絵が入り込む隙間など無いように思える。

薄ら寒くなって来た。
やがてみかっちさんが傍に来て、「搬入の時のリストにもないって、どうなってんの」と
打ちひしがれたように肩を落とす。
「なんかダメ、あたし。あの人形がらみだと、全然記憶があいまい。何がホントなのか
 全然わかんなくなってきた」
それは俺も同じだ。つい数時間前にこの目で見たはずの絵が、その存在が、忽然と消え
てしまっている。
「ねえ、このへんから変な声がしたり、黒い髪の毛がいっぱい落ちてたりしたよね」
とみかっちさんは再び仲間の方へ声を掛けるが、「えー、なにそれ知らない。あんたな
に変ことばっかり言ってんの」と返された。
「その髪の毛は一人で掃除したのか」
納得いかない様子ながらも、師匠の言葉に頷く。そんなみかっちさんは兎も角、俺たち
まで幻を見ていたというのか。
師匠にその存在を否定されてから、あの人形の痕跡が消えていく。俺は目の前の空間が
歪んで行く様な違和感に包まれていた。まるでこの世を侵食しようとした異物が己に関
わるすべてを絡めとりながら闇に消えていくようだった。
「まさか」
と俺は師匠が脇に抱える布を見た。木枠に納められたあの写真をグルグルに巻いてい
る布だ。
これまで、どうにかなっているようだと、それこそ頭がどうにかなりそうだった。
「これは、見ない方がいいな」
師匠は強張った表情でしっかりとそれを抱え込んだ。
そのあと師匠がそれを処分したのかどうかは知らない。


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