[人形]
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師匠は余裕の表情で革張りのソファに深く体を沈めた。俺は写真にもう一度目を落とし、
人形を良く観察する。色こそついていないが、やはりあの絵と全く同じ人形のようだ。
髪型や表情、帯や着物の柄も同じに見える。師匠はこの写真からなにかわかったのだろ
うか。
やがて静まり返っていた家の中に、女性の悲鳴が響き渡った。
全員腰を上げ、客間を出る。スリッパの音がバラバラと床を叩いた。みかっちさんが
先導して1階の奥の部屋へ足を踏み入れると、広々とした和室に礼子さんの後姿が見えた。
「いないのよ。あの子が」
屈み込み、取り乱した声で畳を爪で引っ掻いている。
和箪笥など古い調度品が並ぶ中、奥に床脇棚があり、その上に空のガラスケースが置
かれていた。
ガラスケースの中には薄紫色の座布団のような台座だけがぽつんと残されていて、丁度
あの人形が納まる大きさのように思えた。
「誰なの。どこへやったの」と呻く様に繰り返している礼子さんに、みかっちさんが駆
け寄り「落ち着いて」と背中をさする。
次の瞬間、バン、という大きな音がして横を見ると、師匠が後ろ手で壁を叩いた格好の
まま険しい顔つきで女性二人を睨んでいる。
「落ち着くのは、キミもだ」
そう言いながら床脇棚に近づき、ガラスケースを持ち上げる。台座を触り、その指を二
人に見せ付けた。
「この埃は、少なくとも何年かここに人形なんか置かれていなかったことの証だ。あの
 絵を見た時からおかしいと思っていたが、写真を見て確信した。人形なんかこの家に
 はないじゃないかと」

礼子さんが怯えたような顔で、頭を抱える。みかっちさんも目の焦点が合っていない。
「先日の温泉旅行、その人形がバッグから出てくるところを見たのは彼女の他にキミだ
 けだ。それは本当にあの人形だったのか?」
師匠の詰問に、みかっちさんはうろたえて「え、だって」と口ごもった。そして「あれ?
 あれ?」と両手で自分の頭を挟むように繰り返す。
「人形を絵に描いたと言ったが、具体的にどこでどうやって描いたか、今説明できるか」
「え? うそ? あれ?」
みかっちさんは今にも崩れ落ちそうに小刻みに震えながら、なにも答えられなかった。
「あの写真持ってきて」との師匠の耳打ちにすかさず従い、ほどなく俺は3人の前に写
真を掲げた。
「僕はその人形を描いたという絵の着物の襟元を見ておかしいと思った。それは合せ
 方が通常と逆の左前になっていたからだ」
師匠は洋服とは違い、和服は男女ともに右前で合せるのが伝統だと語った。
「これに対し、死んだ者の死装束は左前で整えられえる。北枕などと同じく葬儀の際
 の振る舞いを"ハレ"と逆にすることで死の忌みを日常から遠ざけていたんだ。だから
 子どもの遊び道具であり、裁縫の練習台であった、いわば日常に属する市松人形が
 左前であってはおかしい」
こんなことは説明するまでもなかったか、と呟いてから師匠はみかっちさんの方を
向いた。
「モデルを見て描いたのであれば、こんな間違いは犯さないはずだ。絵の技法上の
 意図的なものでない限り、彼女はその人形を見ていないんじゃないかとその時少
 し不審に思った」
そして写真を指さす。

「そこで出てきたのがこの銀板写真だ。銀板写真は明治の志士の写真などで知られる
 湿板写真やその後の乾板写真と大きく異なる性格を持っている。それは被写体を
 左右逆に写し込むという技術的性質だ」
え? と俺は驚いて写真を見た。
文字の類は写真に写っていないので、左右が逆であるかどうかは咄嗟に判断がつかない。
そうだ。
着物の襟だ。と気づいてからもう一度3人の女性の襟元をよく見た。本人から見て左側
の襟が上になっている。
「ホントだ。左前になってます」と言うと、師匠に話の腰を折るなと言わんばかりに「バ
 カ、左前ってのは本人から見て右側の襟が上に来ることだ」と溜め息をつかれた。
あれ? じゃあ写真の女性は右前なわけで、正しい着方をしていることになる。左右逆
に写っていないじゃないか。
師匠は人さし指を左右に振ってから続けた。
「これが日本人の迷信深いところだ。銀板写真が撮られた当時、被写体は武家や公家な
 どの支配階級の子弟たちだったわけだが、出来上がった己の写真が死装束である左前
 となっていては縁起が悪いために、わざわざ衣服を逆に着て撮影していたんだ。もっ
 とも単に見栄えの問題もあったのだろう。武士など刀まで右の腰に挿し直して撮って
 いる。当時の銀板写真を良く見ると、襟元や腰の大小が変に納まり悪く写っているか
 ら、彼らの微笑ましい努力の跡が垣間見えるってものだ」
ということは、つまりこの着物姿の3人の女性も撮影時にわざわざ左前にしてカメラの
前に座ったのか。
俺は感心し、言われなかったら気づかなかったであろう100年の秘密に触れたことに、
ある種の快感を覚えた。

続く