[人形]
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「私の祖母の家は、明治から続く写真屋だったそうです。この写真はそのころの家族を
 撮ったもので、たぶんこの中に私のひいひいおばあちゃんがいるそうです」
礼子さんはうっとりとした表情で装飾された木の枠を撫でながら、「真ん中の人かな」
と言った。
師匠は、食い入るような目つきで顔を近づけて見ている。おお、マニアっぽくていいぞ、
と思っていると彼は急に目を閉じ、深いため息をついた。
「これは銀板写真だね」
目をゆっくりと開いた師匠の言葉に、礼子さんは軽く首を傾げた。わからないようだ。
俺もなんのことかわからない。
「写真のもっとも古い技術で、日本には江戸時代の末期に入ってきている。銀メッキ
 を施した銅板の上に露光して撮影するんだ。露光には長くて20分も時間がかかる
 から、像がぶれないように長時間同じ姿勢でいるためにこうして椅子に座り……」
と言いながら師匠は着物の女性の髷を結った頭部を指さす。頭の上になにか棒のよう
な器具が出ている。
「こういう、首押さえという道具で固定して撮る。ただ、この銀板写真も次世代の技術
 である湿板写真の発明によってあっという間に廃れてしまう。長崎の上野彦馬とか
 下田の下岡蓮杖なんかはその湿板写真を広めた職業写真家の草分けだね。明治に入
 ると乾板写真がそれにとって代わり、日本中に写真ブームが広がる。その中で出て
 きたのが、写真に撮られると魂を抜かれるだとか、真ん中に写った人間は早死にす
 るだとかいう噂。それからそこにいないはずの人影が写った"幽霊写真"。今の心霊
 写真の元祖は明治初期にはすでに生まれていて、そのころからその真偽が論争の的に
 なっている」
ほー、という感心したような吐息が女性陣から漏れる。

本当に古い写真マニアだったのかこの人は。いや、というよりは、やはり心霊写真好
きが高じてというのが本当のところだろう。
「というわけで、銀板写真は明治の写真屋の技術ではないんだ。だからこれは商売
 道具で撮影したものではなく、回顧的もしくは技術的興味で撮られた写真だろう。
 像も鮮明だから、露光時間が短縮された改良銀板写真技術のようだね」
やはり感じたとおり、材質は紙ではなかった。銅版なのか。
俺はしげしげと3人の女性を見つめる。100年も前の写真かと思うと、不思議な気
持ちだ。本当に写真は時間を閉じ込めるんだな、と良くわからない感傷を抱いた。
「魂を抜かれるって、聞いたことがありますね。真ん中で写っちゃいけないとかも」
礼子さんの言葉に師匠は頷きかける。
「うん。それは当時の日本人にとっては切実な問題だったんだ。鏡ではなく、まるで
 己から切り離されたように自分を平面に写し込むこの未知の技法を、どこか忌まわ
 しいもののように感じていたんだろう。この写真の女の人たちが目を背けているの
 も、その頃の俗習だね。視線を写されるのは不吉だとされていたらしい」
本来の目的を忘れて師匠の話に耳を傾けていると、そこから少し口調が変わった。
「この、真ん中の女性が抱いている人形もそうだ」
みかっちさんの肩も緊張したように、わずかに反応する。
「真ん中の人間の寿命が縮むというのは明治時代、日本中に広がっていた噂でね。今
 で言うミーム、いや都市伝説かな。そんな噂を真に受けて不安がる女性客に、写真
 屋が手渡すのがこれだよ」
師匠は女性の膝の人形を指さす。
「人形を入れれば、全部で4人。真ん中はなくなる。それに椅子に斜めに腰掛けるこ
 とで、人間ではなく膝の上の人形が正確に写真の中心にくるような配置になってい
 る。つまり寿命が縮む役の身代わりということだ。そうした写真の持つ不吉さを、
 人形に全部被せていたんだ」

ゾクゾクしはじめた。
身代わり人形だったのだ。
"穢れ"の被り役としての。
恐らく、写真屋は同じ人形を使い続けただろう。その頃、写真を撮るような客は上流
階級に属している者ばかりのはずだ。そんな客に、使い捨ての安っぽい人形を持たせ
る訳にもいくまい。つまり、こういう、上質な市松人形のようなものが、ずっとその
役目を負い続けるのだ。意思を持たないものに、悪意を被せ続ける……
そのイメージに俺はぞっとした。
何年何十年という時間の中で穢れは、悪意は集積し、この人形の内に汚濁のように溜
まっていく。そして……
シーンと静まる家の中が、やけに寒く感じられた。
「ちょっと、なんでそういうこと言うのよ」
礼子さんの口から鋭く尖った言葉が迸った。
「この子は私のひいひいおばあちゃんの大切な人形よ。そんな道具なんかじゃない。だ
 ってずっと大事にされて今の私にまで受け継がれたんだから。見ればわかるわ」
そう捲くし立てて礼子さんは凄い勢いで部屋の出口へ向かった。
唖然として見送るしかない俺の横で、師匠は叫んだ。
「そんなものが実在すればね」
一瞬、礼子さんの頭がガクンと揺れた気がしたが、彼女はそのまま部屋を飛び出して
いった。
「どういうこと?」
とみかっちさんが訝しそうに眉を寄せる。
「まあ見てな」

続く