[人形]
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「ね」
とみかっちさんは小さな声で言った。
確かに不気味な絵だ。市松人形というのだろうか。可愛らしい人形を描いた絵とは
少し言い難い。何故かは自分でもよくわからないが、人間ではないものが人間を擬
してそこにいるような嫌悪感があった。
「これは誰の絵?」
「わたし」
みかっちさんは後ろ頭をわざとらしく掻く。困ったような表情も浮かべている。
「モデルがあるね」
「……友だちの持ってる人形。すっごく古いの。ちょっと興味があって描かせてもら
 ったんだけど」
伏目がちな童女のふっくらした顔が不気味な翳を帯びている。胸元を締める浅葱色の
帯が所々剥げてしまって、どこか哀れな風情だった。
師匠は真剣な表情で絵に顔を近づけ、何事かぶつぶつ言っている。
「やっぱこれかなあ。どうしよう。結構気に入ってるんだけど」
「なにか曰くがある人形なんですか」
「あるよ。すっごいの。でもこれはタカガわたしが描いた絵だし、全然気にしてなか
 ったんだよね」
「その曰くって、どんなのですか」
俺がそう口にしたところで、師匠が顔を離し、難しい顔で「逆だ」と呟いた。
「え?」と訊くと、絵から目を逸らさないまま「いや」と言い淀み、首を振ってか
ら「やっぱり、よくわからないな。これが原因だとしても、ただの媒体にすぎない。本
体の方を見たいな」と言う。
みかっちさんは「う〜ん」と言ったあと、ニッと唇の端をあげた。
「込み入った話だとここじゃちょっとね。近くの喫茶店で話さない?」
師匠と俺は頷く。みかっちさん、最初は敬語気味だったのにいつの間にか師匠にも
タメ口だ。
「あ、でも交替要員が来るまでまだ結構時間あるから、絵でも見てて」
来た時は俺たちしか居なかったのに、いつの間にかもう一人初老の男性がやって来て
ショートボブの女性が応対している。
俺はギャラリーの真ん中に立って、目を閉じてみた。精神を集中し、違和感を探る。
するとやはり、人形の絵がある方向になにか嫌な感じがする。照明があたり難いせい
なのかも知れないが、あの辺は妙に暗い気がする。
「ねえミカ、友だち? なに熱心に見てたの」
ショートボブの女性が声をかける。
「うん。人形の絵をちょっとね」
「人形の絵?」
首をかしげる女性に、みかっちさんはなんでもない、と手を振った。
俺と師匠は一通り絵の説明を受けながらギャラリーを見ていったが、素人目には上手
いのか下手なのかもよくわからない。ただモダンな感じの難解な絵はなく、わりと
シンプルで写実的な作品が多かった。
「見て見てこれ、あたしがモデル」などと言って裸婦の絵を指さしなど、テンション
の高いみかっちさんとは裏腹に、俺たちは絵画鑑賞などすぐに飽きてきてしまった。
特に師匠など露骨で、ショートボブの女性が熱心に紹介してくれているのに気乗りし
ない生返事ばかり。そして少しイライラしてきたらしい女性が「絵はあまりお好きじゃ
ないみたいですね」と言うと、それに応えて思いもかけないことを口にした。
「絵なんて、ようするにすごく汚れた紙だ」
絶句する女性に、畳み掛けるように続ける。
「見るくらいにしか役に立たない」
平然と言ってのけた師匠を、さすがにまずいと思った俺がむりやり引きずって外に出
した。みかっちさんには「近くの喫茶店にいますから」と言い置いて。
ザワザワと耳障りな雑踏の音が飛び込んでくる。やはりああした所は、鑑賞中に気が
紛れない様に防音が効いているのだろう。
俺は師匠を問い詰めた。
「なんであんなこと言うんです。人がせっかく描いた作品に」
「別に貶したつもりはなかったんだけどな」
「自分が好きなものをバカにされたら誰だって怒りますよ」
師匠はう〜ん、と言って顎を掻く。
「オカルトの方がよっぽど役に立たないでしょ」
俺は自分自身への自虐も込めて師匠を非難した。
すると師匠は急に遠くを見るように目の焦点をさ迷わせ、横を向いてじっとしていた
かと思うと、こちらへゆっくりと向き直って言った。
「役に立たないものは、愛するしかないじゃないか」
二人の間に足元に駐車禁止の標識の影が落ちていた。俺は一瞬なんと返していいかわ
からず、ただ彼の目を見ていた。
その言葉は、今では師匠の好きだったある劇作家の言葉だと知っている。あるいは戯
れに口にしたのかも知れない。それとも彼の深層意識から零れ落ちたのかも知れない。
けれどその時の俺は怒ると言うより呆れていて、そんな言葉をくだらないと思い、なん
だそれと思い、そしてそれからずっと忘れなかった。

喫茶店で軽食をとりながら30分ほど待ったところで、みかっちさんがやってきた。
「ごめーん、遅くなったあ」などと軽い調子で席に着き、さっきの師匠の失言などまる
で気にしてない様子だった。

続く