[エレベーター]
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俺たちは何が起こるんだろうという不安な気持ちで、それでも言うとおりにする。
1階に俺。3階に友人という布陣でそれぞれエレベーターの前の立った。
そして1階からエレベーターの中に乗り込んだ俺は、指示された通り、中の操作盤で
5階と"閉"のボタンを2本の指で同時に押した。それから通話中にしていたPHSで
友人に「押した。そっちも押して」と言う。打ち合わせ通り、友人も3階で下向き矢
印のボタンを押したはずだ。
ほどなくして扉が閉まり始める。向こうの壁の模様がやっぱり何かの顔に見えた。シ
ミュラクラ現象、シミュラクラ現象と、最近知ったばかりの心理学用語をお経のよう
に頭の中で唱える。
ゆったりと箱が上昇する感覚があり、すぐに3階で停止するはずと身構える。
しかし箱は3階では止まらず、5階のランプがついたところで静止し、扉が開いた。
夜風が侵入してくる。外には誰もいなかった。足を踏み出し、呆けたままの俺の残し
て背後で扉が閉じた。
階段を駆け上ってきた友人が、軽く息を切らせて通路の端から飛び出てくる。
「何だ今の。なんで通り過ぎるんだ」
「そっちこそ、ちゃんと3階でボタン押した?」
「押した。矢印のランプの点灯してたし」
まるきり友人が体験してきた怪現象の再現だ。
師匠から着信。
「ナンですかコレ」
声が上ずる俺に、師匠はバカバカしい、というような口調で「急行モード」と言った。
「外国製のエレベーターの中にはあるんだよ。こういう裏コマンドが」
このメーカーの物は"閉"ボタンと目的階ボタンを同時押しすることで、その後どこの
階で呼び出しボタンが押されてもすべてキャンセルされるのだそうだ。
現在の階数表示を見上げると5階のままだ。この扉の向こうにまだ箱はある。友人が
3階で押した呼び出しボタンは無視されているのだ。
「ということは……」
「そう、そのマンションの連中はそれを知ってて普段から使ってるってこと」
そう言ってから、最後に「明後日遅れんなよ」と付け加えて師匠は電話を切った。
俺は今日あったことを思い浮かべる。
荷物を友人の部屋に置いて4階から下に降りようとした時、上の方の階から箱が下りて
きたのに、4階を素通りして1階まで行って止まった。
あの時、一緒にいた主婦は舌打ちをしていた。あれは急行モードを使った誰かに舌打ち
をしていたのだ。

友人が先日、その主婦と乗り合わせた時、その時も彼女は舌打ちをしたという。それは
他人が一緒に乗ったことで急行モードが使えなかったことに対するイラ立ちだったの
だろうか。
友人が体験したことを一つ一つ検証しても、すべてこの急行モードの存在で説明がつ
くようだ。
あっけなく解決してしまった「怪現象」の正体に俺たちは拍子抜けして立ち尽くして
いた。
目に見えない扉の向こうに怯えていたのが馬鹿らしくなってくる。
あの子どもたちも知っていたのだろうか。道理で話に乗ってこないはずだ。きっと親
から秘密にするように言われているに違いない。これ以上急行モードを知る人が増え
ないように。
そうだ。自分だけ知っていればいいんだ。他人が使う急行モードは迷惑なだけなのだ
から。
「オレ、やっぱり怖いよ」
友人がぽつりと言った。
他人を待たせても自分が便利ならそれでいいと思うその心理に、俺も背筋が寒くなる
思いがした。
きっとそれは匿名だから。エレベーターの前で待ちぼうけを食わされる人が匿名だか
らだ。誰だか知らない人を待たせる悪意。誰だが知らない人に苛立つ悪意。そんなさ
さやかな悪意がこのマンションに充満して、それが俺たちの心をどうしようもなく暗
く沈ませるのだった。

友人は2回生にあがる時、そのマンションから2階建てのアパートに引っ越した。そ
れまでの間、彼は階段しか使わなかったそうだ。


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