[エレベーター]
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「あ〜あ」
友人がため息をついた。子どもはこういう話、好きそうなのに。と呟く。
「大人にも聞く?」と問う俺に、「う〜ん」と気乗りしない返事をして、彼は傍らのブ
ランコに足をかけた。
「苦手なんだよな。ここの人たち」
「どうして」
俺ももう一つのブランコに腰をかける。
キイキイと鎖を軋ませながら友人は「オレの実家は田舎でさあ」と話し始めた。
隣近所はすべて顔見知りだったこと。近所づきあいは得意な方ではなかったが、道で会
えば挨拶はするし、食事に呼ばれることもあったし、いたずらがばれて叱られたりもし
た。良くも悪くも、そこでは人間関係が濃密だった。
けれど大学に入り、ここで一人暮らしを始めてから隣近所の人との交流がまったく無く
なっていること。
「最初は挨拶してたんだけど、反応がさ、薄いんだよね。シーンとしてる狭い通路で
すれ違っても、こう、会釈するだけ。立ち話なんてしないし、隣の家の子どもが二人
なのか三人なのか知らないんだぜ、オレ」
友人の言いたいことは俺にも分かった。俺自身、今のアパートに越してから、同じアパ
ートの住人とほとんど会話を交わしていない。学生向きの物件ということもあったが、
生活時間もみんな違うし、隣の人の顔も知らない。知りたいとも思わない。すれ違っ
ても妙な気まずさがあるだけだ。
「無関心なんだよな」
友人はぼそりと言った。
そうとも。そして俺たちもそれに染まりつつある。こんな風に密集して生きていると、
みんなこうなっていくのだろうか。ふと、高校の頃に習ったバッタの群生相の話を思
い出した。
「知らない住人とさ、エレベーターに乗り合わせたら凄く息が詰まるよ。デパートの
エレベーターならそれほどでもないのに」
顔を上げると、日が落ちて薄闇が降りてきたマンションの中へ、顔も見えない誰かの
後ろ姿が吸い込まれていくところだった。
キイキイという音だけが響く。
匿名だ。何もかもが匿名だ。匿名のままこの巨大な構造物の中を無数の人々が影のよ
うに蠢いている。
そうして、小一時間無為にブランコを漕いでいた俺たちだったが、あたりがすっかり
暗くなり小腹も空いてきたのでもう帰ろうと腰を浮かしかけた時だった。PHSに着
信があり、出てみると俺にくだんの「目に見えないジョーカー」の忠告をした人から
だった。俺のオカルト道の師匠だ。
明後日行く予定の心霊スポットについての確認の電話だったが、俺はついでとばかり
今居る場所とそのマンションのエレベーターについての噂を知らないかと聞いてみた。
「知らない」
そんなに期待した訳ではないが、地元民でもないのにやたらとこういう話を仕入れて
いる彼ならばひょっとして、と思ったのだ。
やっぱりね、というニュアンスの言葉で切ろうとしたのが気に障ったのか、詳しく話
せという。
そこで俺は、友人の体験したいくつかの例や、今日あったことなどを手短に告げた。
師匠は少しの間押し黙ったあと、「そのエレベーターのところで待ってて」と言って
電話を一方的に切ってしまった。
何か分かったのだろうか?
電灯に照らされたマンションの入り口へ歩く。「何? 誰?」と訊く友人に、「サー
クルの先輩」とだけ説明して、かわす。彼が何者かなんて、俺だって知りたいのだ
コツンと靴の音が響く。
エレベーターの前に立つと不思議な感じがした。マンションという匿名の箱の中のさ
らに匿名の空間。今閉じているこの扉の向こうに誰がいるのか俺は知らない。階数表
示の光だけだ流れ、人の動きを想像する。そこには本当に人がいるのか俺には分から
ない。いや、分からなくなった。顔の無い幻影が彷徨うイメージが一人歩きしはじめた。
PHSの着信音に我に返る。等間隔に伸びる天井の電灯が通路を照らしている。
「お待たせ。色々書いてある表示盤は外にある? なかったら中に入って」
言われるまま、友人を促してエレベーターの中に入る。
「操作盤の中か、近くになんか色々書いてるシールかプレートがあるだろう。メーカー
名はなんて書いてある?」
閉じそうになった扉を手でガードして、"開"ボタンを友人に押していてもらう。
「えーと、外国製っぽいです。どれがメーカー名だろ……」
どうやらこれらしいという文字を見つけて読み上げる。
師匠は電話口で笑いを堪えているような音を立てた。
「OK。じゃあもう一人の友だちに3階に行ってもらって」
師匠はいくつか指示を飛ばしてから、電話を切った。
続く