[エレベーター]
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矢印のボタンはランプがついたままだった。
「やっぱり故障じゃないか」
"この階に来て扉を開け"という命令を示すランプが点灯しているのに、箱が1階に止ま
ったままなのだから。
俺は矢印ボタンを連打した。たぶん機械が古くなって本体の反応が悪くなっているの
だろう。
俺の連打が効いたのかようやく箱の現在位置は動き始め、俺たちの前で扉が開いた。
中には誰も乗っていない。
友人を促して乗り込む。
操作盤の1階のボタンを押してから、"閉"のボタンを押す。すぅっと扉は閉まり、落ち
ていく感覚が始まる。箱の中にわずかに残る香水のような匂いを、鼻腔が感知する。
不快だ。
顔が黒く塗りつぶされた人物のシルエットが、俺の中でおばさんパーマに変わる。
1階についた。
すんなり開いた扉を出て、無人のエレベーターの中を振り返る。
ほんとうにただの故障だろうか。
夕日が射す中を、扉は影を作りながら閉じていく。完全に扉は閉まり、箱の中は見えな
くなった。
ふと、思う。
今この場でもう一度ボタンを押してこの扉を開いたとして、中に誰かがいたら、どうし
よう……
嫌な空想だ。自分で勝手に恐怖を作ろうとしている。我ながら悪癖だと思う。けれど、
以前ある人が言っていたことを思い出す。
『想像って、自発的なものとは限らないだろう。ババ抜きの最後の2択で片方だけ取り
易いように少し出っ張ってたら、そっちがババじゃないかって想像するよな。なにか
に誘発される想像もあるってことだ。もし目に見えないジョーカーを視覚以外のなに
かで知覚したなら、それは想像の皮を被って現れるかも知れない』
もって回った表現だが、俺はそれを彼なりの警告と捉えている。つまり、感じた恐怖を
疎かにするなということなのだろう。けれど、あまり真剣には受け取っていない。そん
な想像をこそ、妄想というのだろうから。
「で、どうする」
チッチッ、という音がして、石ころが舗装レンガの上を滑っていく。何人かの子ども
がそのあとを駆け抜ける。マンションの壁に遮られてその姿が見えなくなっても、長
く伸びた影だけが、何かの戯画のように蠢いて地面をのたうっている。
俺はそちらにゆっくりと歩いていき、声をかけた。
「このマンションの子?」
ギョッとした表情で全員の動きが止まる。6,7人いただだろうか。小学校高学年と
思しき一人が疑り深そうな目で「なんですか」と言った。
「ちょっとききたいんだけど」と間を置かずに切り出して、このマンションのエレベ
ーターで何かおかしなことはないかと訊いた。
一瞬顔を見合わせる気配があったが、おずおずと一人が代表して「知りません」と答える。
エレベーターじゃなくてもいいけど、オバケが出るとかいう噂がないか、重ねてきい
ていると、すでに後ろの方にいた何人かが石ころを再び蹴飛ばして走り始めた。
代表の男の子もそちらに気を引かれて、もじもじしている。
「何か変なものを見たとか、そういうこと聞いたことないかな」
男の子は気味の悪そうな顔をして、「ナイデス」と小さな声で何度か繰り返し、すぐ後
ろにいた子に「おい、行こうぜ」とつつかれてからクルリと背を向けて走り去っていった。