[エレベーター]
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友人はドアの鍵を開けると二人分のバッグを玄関先に放り込んで戻ってきた。そしてエ
レベーターの前に再び立つ。箱の現在位置は8階に変わっている。
今度はなかなか矢印ボタンを押さない。少し緊張しているようだ。
横目で言う。「その、変なことが起こる確率はどのくらい?」
「あー、ご……5回に一回くらいかな。いや、10回に一回かも。……わかんねえや」
俺は質問を変えた。
「昨日と今日は?」
「……あった。昨日の夜、酒買いに降りようとしたらよ……」
そこまで言ったところで、「ちょっとごめんなさーい」という声とともに40代くら
いの主婦と思しき年恰好の人が俺たちの立ち位置に割り込んできた。まるでエレベー
ターの前で立ち話をしている俺たちを邪魔だと言わんばかりに。
後ずさりして場所を空けた俺たちの目の前で主婦は下向き矢印を素早く押し、エレベ
ーター上部の階数表示ランプを見上げた。
7,6,5とランプが下がって来て4の表示が光ろうかという時、俺たちは顔を見合
わせて(このおばさんと一緒に降りるべきか)とわずかに思案した。
が、次の瞬間驚くことが起こった。
4の数字が光るタイミングが来てもエレベーターの扉は開く気配も見せず、表示ランプ
はそのまま4、3と下がっていったのだった。
あっけにとられた俺の前で主婦は「チッ」とあまり上品でない舌打ちをしたかと思うと、
踵を返してさっさと階段の方へ去って行ってしまった。
取り残された俺たちは、再び人気のなくなった空間にたたずんで顔を見合わせた。
「これか」
俺の言葉に友人は神妙に頷く。
ぞわっと背筋が寒くなった気がした。

けれど、冷静に考えるとやはりただの故障のような気がしてくる。口を開きかけた時、
友人が思惑外のことを言い始めた。
「あのおばさん、なんかニガテなんだよ。たぶん9階に住んでるんだけど、4階に友
 だちがいるみたいで時々すれ違ったりすんだよ。最初に会った時、なんていうか挨拶
 するタイミングみたいなのって、あるじゃん。それがなんかどっちも噛み合わなかっ
 たっていうのか、まあシカトみたいになっちゃって。それから、こないだ挨拶しなか
 ったのに、今回はするって変な感じがして、結局毎回シカトみたいになってて。いや、
 そういうのあるだろ。わかるよな」
確かにわかる。俺も近所づきあいとか、苦手なほうだ。
「こないだなんか、1階からエレベーター乗ったらよ。先にあのおばさんが乗ってて、
 オレの顔見るなりチッって舌打ちしたんだぜ。こっちには聞こえてないつもりだった
 かも知んないけど、感じ悪いわぁ」
友人は首を捻って悪態をついた。
エレベーターの表示は1階で止まったまま動かない。
この4階を素通りしたあと、誰かが箱を降りたのだろうか。乗るために箱を呼んでいた
のなら、1階から再び上ってきているはずだから。ということは、さっき俺たちの前
を素通りしていった箱には、誰かが乗っていたことになる。いったい誰が…… 今から
ダッシュで階段を降りてもきっと、立ち去ったあとだろう。オレは顔の部分が黒く塗り
つぶされた人物がこのマンションを徘徊しているイメージを頭に浮かべ、少し薄気味が
悪くなった。扉の透明なタイプのエレベーターなら、このもやもやも解消されたかも知
れないのに。
「どうする、階段にするか」
「いや、エレベーターにしよう」
俺はもう一度下向き矢印のボタンを押そうとして、ハタと手を止めた。

続く