[エレベーター]
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俺は腕時計を見た。見たところで、今日はもうなんの予定もないことに気づく。
「今からそこに行ってもいいか?」
友人も俺に習ってか、儀式的に腕時計を見た後、「いいよ」と言った。
俺が行ったところで問題が解決するとは思えないが、少なくともなにか怖い目には遭え
るかも知れない。友人がこの話を俺にしたのも案外解決という目的ではなく、漠然とした
"共有"のためかも知れないじゃないか。
好奇心猫を殺す。
思わずそんな呟きが自嘲気味にこぼれ出た。昨日の夜、漫画を読んでいてそんな言葉が
出て来たのがまだ頭にこびりついていたらしい。俺にぴったりの格言だと思う。けれど
その頃の俺は、手に届く距離にあるオカルトじみた話を無視できる心理状態になかった
のは確かだ。
「克己心じゃなかったっけ」
という友人の間の抜けた声が聞こえた。

夕暮れが深まる中を、自転車で駆けた。
密集した住宅街から少し離れた郊外に友人のマンションはあった。上空から見たとすれ
ばそれは大きなLの字のような構造をしているようだ。駐車場に自転車を止め、夕日に
巨大な影を伸ばすその威容を見上げる。とうてい学生向けの物件には見えない。実際、
敷地内には小さなブランコや昆虫の形をした遊具が散見できた。ここには小さな子ども
のいる多くの家族が住んでいるのだろう。
「いいとこ住んでんなあ」と漏らしながら、友人の後をついて玄関へ向かった。
1階のフロアに入ると、すぐ正面にエレベーターが現れる。L字のちょうど折れている
あたりだ。右手側と、振り返る背後に各部屋のドアが並んでいる。
「階段もあるけど、あっちの端なんだ」と友人は背後の、L字の短い方の端を指差した。
「ちょっと不便な感じ」
そう言いながら、友人は思ったよりあっさりとエレベーターの上向き矢印ボタンを押した。
現在の階数表示では5階のランプが点灯している。あまり待つことなくすぐにランプが
降りてきて、1階のそれが一瞬点灯するかしないかのうちに扉が開いた。
「なんか、前振りあった分、緊張するな」そんなことを言って、友人は中に乗り込んだ。
俺も後に続く。
「4」のボタンを押してから、「閉」のボタンを押す。
扉が閉まる。
閉まる瞬間、正面の灰色の壁に顔のような模様が見えた気がしてドキッとする。音も無
くエレベーターは上昇する。息が、詰まる。
「今も、目に見えない誰かが乗ってたりすんのかな」
友人は軽い口調でそう言う。かすかに、語尾が震えている。
何ごとも無く、エレベーターの箱は4階についた。扉が開き、俺たちは外に出る。
友人は軽く肩を竦めて、両方の手の平を返した。
「昇る時は、大丈夫なんだよ」
夕焼けが立ち並ぶ部屋のドアをフロアの端まで赤く染めている。友人はその一つを指さ
して「俺んちだけど、よってくか」と言う。微かな起動音とともに背後のエレベーター
が下に呼ばれ、ランプが一つ、二つ、と降りていく。二人とも、なんとはなしにそちら
から目を逸らす。
外から子どものはしゃぐ声と走り回る足音が響いて来た。脇の高さの塀から顔を出して
下を覗いてみると、数人の小学生くらいの子どもがおもちゃの剣らしいものを振り回し
ながら敷地内の舗装レンガの道を行ったり来たりしている。しばらくそれを眺めたあと
で、「情報収集してみよう」と言って俺は視線を戻し、人差し指を下に向けた。
「オッケー。でも先に荷物置いてくる」

続く