[貯水池]
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カーステレオからカツゼツの悪い声が流れてくる。師匠は完全に稲川淳二をギャ
グとしてとらえていて、気分が沈みがちな時にはその怪談話をケラケラ笑いなが
ら聞き流してドライブするというのが常だった。
僕はその頃まだ稲川淳二を笑えるほどスレてはいなく、その独特の口調による怪
異の描写に少しゾクゾクしながら助手席で大人しくなっていた。
雨の降り続く中を車は走り、やがて貯水池のある道路にさしかかった。
師匠はギアを2速に落とし、2メートルあまりの高さのフェンスを左手に見なが
らそろそろと進む。
雨が車の窓やボンネットに跳ねる音と、ワイパーがガラスを擦るキュッキュッ、と
いう音がやけに大きく響き、僕は少し心細くなってきた。
「あれかな」
師匠の声に視線を上げると、車のライトに反射する雨粒の向こうに人影らしきもの
が見えた。だんだんと近づくにつれ、それがフェンスの向こう側にいることに気
づく。近くに民家もなく、人通りもない。そこに雨の中、まして夜に一人で貯水
池に佇んでいる人影が、まともな人間だとは思えない。少なくとも僕の良く知る
世界のおいては。
さらにスピードを落として車は進む。そしてあと10メートルという距離に来た
時、意表を突かれることが起こった。
そのフードをすっぽりとかぶった人影が、右手を挙げたのである。
まるで「乗せてくれ」と言いたいかのように。
僕の知る世界において馴染みのある仕草に一瞬混乱し、次に起こった思いは「乗
せてあげないといけない」という至極当然の人間心理だった。
雨の中、困っている人がいたらたとえタクシーでなくとも乗せてあげるだろう?
その、一見すると正しいように見える着想は、口にしたとたん次の瞬間師匠の一言
に掻き消された。
「あれはヤバイ」
緊迫した声だった。
クラッチを踏んで、バックするべきか、刹那の迷いのあとで師匠の足は全開でア
クセルを踏み込んでいた。
背もたれに押し付けられるような加速に息を詰まらせ、心臓がしゃっくりあげる。
「どうしたんですか」
ようやくそれだけを言うと、助手席の窓から右手を挙げたままの黒い人影がフェ
ンスの向こうに立っている姿が一瞬見えて、そしてすぐに後方へ飛び去って行っ
た。顔も見えない相手と、なぜか目が合ったような気がした。
「雨に濡れて途方にくれてるヒトが、なんでフェンスの向こう側にいるんだ」
人間じゃないんだよ!
そんな言葉が師匠の口から迸った。
フェンスは高い。上部には鉄条網もついている。そして貯水池に勝手に入り込め
ないように、唯一の出入り口は錠前に固く閉ざされている。
その向こう側に、車に乗せて欲しい人がいるはずは、確かにないのだった。
そんな当然の思考を鈍らされ、僕一人ならそのまま確実に心の隙につけこまれ
ていた。
ゾッとする思いで、呆然と前方を見るほかはなかった。しかしすぐに気を奮い立
たせ、後ろを振り返る。リアウインドの向こうは暗い闇に閉ざされ、もう何も見
えない。そう思った瞬間に、なんとも言えない悪寒が背筋を走り、視線が後部座
席のシートにゆっくりと落ちた。
表面が水で濡れて、かすかに光って見える。
女が忽然と車中から消える、濡れ女という怪談が頭をよぎり、つい最近読んだの
はあれは遠藤周作の話だったかと思考が巡りそうになったが、脊髄反射的に出た
自分の叫び声に我に返る。
「乗せてなんかいないのに!」
続く