[貯水池]
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僕の言葉に、師匠も首を捻って後部座席を一瞥する。そして、ダッシュボードから
雑巾を取り出したかと思うとこちらに放り、「拭いといて」と言った。
唖然としかけたがすぐに理性が反応し、座席を倒して腫れ物に触るような手つき
で後部座席のシートの水を拭き取ると、師匠の顔を見て頷くのを確認してから手
動でくるくるとウインドガラスを下げ、開く時間も惜しんでわずかな隙間から外
へとその雑巾を投げ捨てた。
まだ心臓がドキドキしている。
手についた少量の水分を、おぞましい物であるかのようにジーンズの腿に擦り付
ける。
車は、すでに対向車のある広い道に出ている。それでも嫌な感覚は消えない。動
悸が早くなったせいか、車のフロントガラスが曇りはじめた。
「これはちょっと凄いな」
師匠の口調は、すでに冷静なものに戻っている。しかし、その言葉の向かう先を見
て、僕の心臓は再び悲鳴をあげる。
フロントガラス一面に、手の平の跡が浮かび上がって来たのである。
外側ではない。ワイパーが動いている。
内側なのだ。
フロントガラスの内側を撫でると皮脂がつくのか、そのままでは何も見えないが、
曇り始めたとたんにその形が浮かび上がって来ることがある。
まさにそれが今起こっている。
けれど、やはり僕らは乗せてなんかいないのだった。貯水池の幽霊なんかを。
師匠は自分の服の袖で正面のガラスを、一面の手の平の跡を拭きながら、「やっぱ
り捨てなきゃ良かったかな、雑巾」と言った。
カーステレオからは稲川淳二の唾を飲み込むような声が聞こえてきた。話を聞いて
なんかいなかった僕にも、これから落とすための溜めだということが分かった。や
はり僕にはまだ笑えない。情けないとは思わなかった。怖いと思う心は防衛本能そ
のものなのだから。けれど一方で、その恐怖心に心地よさを覚える自分もいる。
師匠がチラッとこちらを見て、「オマエ、笑ってるぞ」と言う。僕は「はい」とだ
け答えた。
その夜はそれで解散した。「ついてきてはないようだ」という師匠の言葉を信じた
し、僕でもそのくらいは分かった。
3,4日経ったあと、師匠の呼び出しを受けた。夜の10時過ぎだ。
自転車で師匠のアパートへ向かい、ドアをノックする。「開いてる」という声に、
「知ってます」と言いながらドアを開ける。
師匠はなぜかドアに鍵を掛けない。
「防犯って言葉がありますよね。知ってますか」と溜息をつきながら部屋に上がる。
師匠は「防犯」と言って壁に立てかけた金属バットを指さす。なんか色々間違って
る人だが、いまさら指摘するまでもない。
「ここ家賃いくらでしたっけ」と問うと、「月一万円」という答えが返ってくる。
ただでさえ安いアパートで、この部屋で変死者が出たという曰くつきの物件である
ためにさらに値引きされているのだそうだ。
「あの貯水池、やっぱり水死者が出てたよ」
本当に師匠はこういうことを調べさせたら興信所並みだ。
言うには、あの貯水池で数年前に若い母親が生まれたばかりの自分の赤ん坊と入水
自殺したのだそうだ。まず赤ん坊を水に沈めて殺しておいて、次に自分の着衣の中
にその赤ん坊と石を詰めて浮かび上がらないようにして、足のつかない場所まで行っ
て溺れ死んだという話だ。