[貯水池]
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少しがっかりしながら、3回に1回くらいは向こう側に出ることもあると付け加え
た瞬間、師匠の体の揺れがピタリとおさまった。
「なんて言った?」
「いや、だからフェンスのこっち側の時と向こう側の時があるって話です。立ち位
 置が」
師匠は首を捻りながら、へぇえと言った。僕は大学の授業で習っている中国語のピ
ンインのようだと、見当違いなことを思った。第四声だったか。下がって上がるやつ。
「物理的な実体を持たない霊魂にとってフェンスという障害物なんてあってもなく
 ても同じだから、こっちか向こうかなんて大した違いはなさそうに思えるかも知
 れないけど……実体を持たないからこそ"ウチ"か"ソト"かっていうのは不可逆的
 な要素なんだ。場についてる霊にとっては特にね」
だから地縛霊って言うんだ。
師匠はようやく乗り気になったようで、声のトーンが上がってきた。
「なにかあるね」
体の揺れの代わりに、左目の下を触る癖が顔を出した。そこには薄っすらとした
切り傷の跡がある。興奮してきた時にはなぜか少し痒くなるらしい。何の傷かは
知らない。
じっと見ていた僕に気づいて、師匠は「嫁にもらってくれるか」と冗談めかして
言う。
とにかく、その貯水池に夜になったら行ってみようということになった。
しかし僕にとっては思った通りの展開だと、手放しで喜ぶわけにはいかない。な
にか得体の知れない不気味な気配が、貯水池の幽霊の話から漂い始めているよう
な気がしていた。
そのあと、師匠が作った夕飯のご相伴に預かったのだが、これが酷い代物で、な
にしろ500グラム100円のパスタ麺を茹でてその上に何かの試供品でもらっ
たという聞いたこともないフリカケをかけただけという、料理とも言えないよう
なものだった。
毎日こんなものを食べてるんですか、と訊くと「今はダイエット中だから」とい
う真贋つきかねる回答。
家賃も安いし、一体何に金をつかっているのやら、と余計な詮索をせざるを得な
かった。
あっという間に食べ終わってしまい、師匠は水っ腹でも張らすつもりなのか麦茶
をがぶ飲みし、トイレが近くなったようだった。
「僕もトイレ借ります」
と言って、戻ってきた師匠と入れ違いに部屋を出る。このクラスのアパートだと
トイレは普通、共有なのだろうがなぜかここには専用のトイレがある。ただし一
度玄関から外に出ないと行けないという欠陥を持っていた。生意気に洋式ではあ
ったが、これがおもちゃのようなプラスチック製で、なるほどダイエットでもし
ていないといつかぶち壊れそうな普請だった。
便座を上げて用を足しながら(冬は外に出たくないだろうなあ)と、すでに秋も
半ばというほのかな肌寒さにしばし思いを馳せた。
戻ってくると、師匠が上着をまとって「さあ行くか」と立ち上がった。
「雨、降りそうですよ」
「うん。車で行こう」
師匠の軽四に乗り込んだ時には、日はすっかり暮れていた。そして走り出して1
00メートルと行かないうちにフロントガラスを雨の粒が叩き始める。
「稲川淳二でも聞こう」

続く