[鋏]
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次の瞬間、右手が嫌なものに触れた。
夜気に湿った、小さなあたま。
苔じゃないのはすぐにわかった。
髪の毛が、生えている。
混乱が恐怖心に点火する前に俺は両手をソレから離し、ジーンズの後ろポケットから
ハサミを取り出した。
愛用というほどでもないが、家にあるハサミというとこれだけだ。
屈み込んで、地蔵の前にある石造りの小さな台を探り当て、ハサミを置いた。
そしてあらかじめ決めてあった名前を3度唱える。
俺にストーキングまがいのことをしていた女の名前だった。
音響にこのおまじないのことを聞いたときから、その効力を解くには、上書きする
しかないのではないかと思っていた。根拠はない。カンだ。
そして上書きされるにうってつけの存在がいた。失敗でもいい。そしてこのおまじな
いが、本当は別の意味であったとしても、それでもよかった。
目の前にあるものがなんなのか、わかりたくなかった。
俺は左を向くと懐中電灯をつけ、目を開けて脱兎のごとく逃げ出した。
這い上がるように斜面を駆け上り、後ろを振り返らず走った。
山鳩の鳴き声が追いかけてくる。草いきれが鼻にこびりつく。閉じ込めていた畏怖の
心が、奇声をあげているような気がした。
よっつめだった。
俺が数え間違えたのか、それとも地蔵ははじめから4体あって、音響が3体だとウソ
をついたのか。
それともそれは、目を閉じないと見つからない、何か得体の知れないものだったのか……
もと来た道を逆走していると、懐中電灯の光が道の真ん中に赤いものを反射した。
赤いハサミだった。

一瞬躊躇したあと、拾い上げる。ノートの切れ端に描かれたイラストにそっくりだ。
山に入ったときとは別のハサミをジーンズのポケットに納めて、俺は帰途を急いだ。
耳は、聞こえるはずのないショキショキという音の幻を湿った風の中にとらえていた。

その次の日、俺はこの前のコーヒーショップでひとり音響を待っていた。
たぶん解決した。
そう言って呼び出したのだが、あながち間違いでもないように思う。この手にある赤
いハサミがその象徴のような気がした。
店内の光度を抑えた照明にそっとかざしてみる。
一体なぜ地蔵に供えられたはずのハサミがあそこに落ちていたのか、俺には知るよし
もなかったがこうして見ると何事ごともないただのありふれたハサミにしか見えなか
った。
「遅せぇな」
独り言をいってしまったことに気づいて周囲を気にする。
さすがにコーヒーショップにハサミを持った男がひとりでいては気持ちが悪いだろう。
そう思って一応念のためにカモフラージュ用の文房具一式と大学ノートを脇に置いて
あった。
ふと思いついて、汗をかいたコーラのグラスを持ち上げ、白い紙でできたコースター
をつまんだ。
右手で持ったハサミを円のふちにあてがう。
深い意図があったわけではない。ただ前回、音響が破いたコースターの切れ端に残っ
ていた鋭利な断面が気になっていたからだった。
軽く力を込めて、刃を噛み合わせる。
そのとき、予想外のことが起きた。
続く