[暗い海]
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はっとして、反射的に後ろを振り向いた。
自分から数メートルもない場所に、何か居る。
旅館の光が多少なりとも海を照らしているため、
そこにいる何かは案外すぐに判別することが出来た。
人間だった。

ジーパンをはき、シャツを着た女が、
濡れた長い髪を振り乱しながら、
それはもう必死に、両手で海を殴っていたのだ。

静かな海の静寂は、バチャン、バチャン、
という海を殴る音でかき消されていた。

大抵、そこで気絶なんかするもんだろうけど、
俺はそんな事出来なかった。さっきとは別の恐怖。
ただ、体が固まって動けずに・・・とはならずに、
荷物を手に取り、一目散に旅館へと走った。
砂のせいで、走りにくいのが鬱陶しかったけど・・・
海を殴る水音は、消える事は無かった。

肺が潰れるんじゃないかと思うほど、俺の息は切れていた。
それもそのはず、さっきも本気で走ったんだから。
恐る恐る旅館に入ると、フロントに両親が居て、
俺を見つけるなり、頭を殴ってきた。
今まで何処に居たのか、と。探したんだぞ、と。
それは俺の台詞だ。

事は、俺が一人でうろついていたという事で収められた。
今しがた体験した事など、誰にも話す気にもなれずに、
結局俺は、残りの一日は、海に行く事は無かった。
両親は、海に行かない俺を見て、怪訝な顔をしていた。

後から考えても、海で見たあれは幽霊の類などではなく、
確実に生きている人間だったと俺は思っている。
ただ、旅館の消失については、納得のいく答えが出ていない・・・

俺と一緒に全てを見たはずの、あの荷物一式。
その「最後の生き残り」だった水中メガネも、
先日、親戚の子供へと譲られてしまった。


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