[黒い貴婦人]
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今日は優しくしてくれてありがとう。
墓地の入り口前で、彼女は俺の傘を握り言った。
こんなに優しくして貰えたのは初めて。
あなたのことは忘れないわ。
傘は彼女にあげた。家は走れば近いし、雨も止みそうだった。
別れてから坂道を少し歩くと、携帯の着信音が鳴った。
坂の下の墓地を振り返ると、彼女は街灯の下で微動だにせずに俺を見送っていた。
妹からのメールだった。
遅くなっちまったから怒ってるだろーな。
メールを開いた。
走って帰れ。
命令メールだった。腹を空かしているのだろう。
続いてまた妹からメールがきた。
なんだ?お使いかな?
絶対に振り返っちゃだめ
耳のすぐ後ろで衣擦れの音が聞こえ、かすかに香水が香った。
全身の毛穴が開き、パニックとともに冷たい汗が噴き出した。
俺は全力で走った。
気持ちばかりが先を走るが体はイメージ通り走ってはくれない。
全身が泡立つのを感じる。
怖いなんてもんじゃない。
捕まれば終わりだと漠然と確信する。
わたし優しくされたの初めて
耳元で聞こえる筈の無い声が囁く。
わたしと…
優しく肩を掴まれた。赤いマニキュアの指が見えた。
さらに耳元で囁く
一緒に…
俺はかすれた悲鳴を上げてそれを振り払い、走り続けた。
うふふふふふふふ
笑い声があちこちから聞こえた。
あまりの恐怖で気が狂いそうだった。制服のシャツの背中を何本もの手が掴もうとする。背中に爪が食い込むのが分かった。
なにかが背中に触れる度に、恐怖が皮膚の下を這い回る。
頭の先から爪先まで冷たい汗で濡れていた。
不意に頭のすぐ後ろで息を吸う気配がした。
つ か ま え た
肩の上から回された腕が俺の胸の前で合わさる。
赤いマニキュア。
右の人差し指だけ色が無かった。
後ろを振り向かずとも視界の端で彼女の横顔を見た。
涼しそうな唇が三日月のように吊り上がる。
きゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃ!
甲高い笑い声が頭で鳴り、意識が遠くなるのを感じた。
右肩ににガツンと衝撃を受け、呼び戻された。
目の前には布に巻かれた棒のようなものを持った妹が立っていた。
うふふふふふふふ…
笑い声が遠ざかっていくのが聞こえた。
お兄ちゃん大丈夫?
妹が俺の後ろ遙か遠くを睨みながら言う。
右肩に激痛が走った。
…なあ、お前、俺を殴った?よな?
妹は持っている棒を後ろ手に隠した。
続く