[罪悪感]
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その晩、わたしは夜遅くまで日記を綴っていました。
書き記すことが多かったのと、ある疑問が頭をよぎってなかなかまとめることができなかったからです。
どうして、彼があのときそのことをわたしに話したのか。
釈然としないまま、ノートを閉じて部屋へ向かいました。
4人ドミトリー部屋でしたが、宿泊者は彼とわたしの2人だけ。
他の部屋の宿泊客も就寝したようで、辺りは静かでした。鍵穴を手探りしているとき、
かさかさと物が擦れる音に気付きました。明らかに自然のものではありません。
ゆっくり扉を押し開けると耳に届く音が大きくなり、窓から斜に差し込む月明かりの中、
彼がベッドの上で半身を起してわたしを睨んでいるのが見えました。
異様にするどい2つの眼光に射すくめられ、声を上げることも、身動きすらできません。
瞬間ふっと彼は視線を外して、両手で足をさすり始めました。
取り憑かれたように手を懸命に動かし、それもどんどん速くなっていきます。
そのとき、先程の音の主が彼だと気付きましたが、一心不乱に上下する彼の動きも音も気味が悪くて、
わたしは怖くて気が変になりそうでした。
とりあえず声をかけてみよう、そうわたしは思いました。
しかし、もし彼がそれに答えてくれなかったらと考えると、
さらに恐ろしくなってその場に座り込み泣いてしまいました。
どれくらい時間が経ったのかわかりません。いつしか、音が止んで
「痺れるんだ。こうしてないと、動かなくなるんだよ。でも、大丈夫」と聞こえました。
わたしが顔を上げると、彼は既にベッドから降りてこちらに向かってきました。
腰が抜け、這って部屋から出ようとしたとき、彼は戸を大きく開いてわたしの横をすり抜けていきました。
片足を引きずって。わたしは彼を見届けてからも少し呆然としながら、
我に返ってすぐ扉を閉め鍵を掛けました。もちろん、彼も鍵を持っていたはずですから、
またいつ帰ってくるとも限りません。とにかくわたしは扉に背を当て彼の侵入を拒もうとしました。
ベッドまでのわずかな距離さえ恐ろしくて、寝袋を取りに離れることもできません。
ぶるぶる震えながら、朝一番でここを出ようと決めました。
朝の喧騒で目が覚め、いつでも逃げれるようにと扉を開け放したまま、手早く荷を詰めました。
ちらちら出口を見ていたのですが、わたしがバックパックを背負った矢先、
音もなく彼がドアの前に立っていたのです。ぞっとしました。
しかし、辺りは明るく、彼の後ろを通り過ぎる人影に勇気づけられ「わたし、バスで行くから」と切り出し、
彼は「そう」と間をおいて「送っていってやるよ」と申し出てきました。
「もう、いいから。構わないでよ」そう言った途端、
彼がひどく悲しそうな表情に変わるのを見て少し胸が痛みました。
わたしはチェックアウトするついでに、パースへの上りと停車駅までの下りの長距離バスについて訊ねました。
すると早くても翌日の昼だというのです。
親切に調べてくれたスタッフもわたしたち日本人が一緒に車で旅をしていることを知っていましたし、
急にわたしがバスに乗って出て行こうとしているのを見て心配したのでしょう、
「喧嘩でもしたの?」と聞いてきました。どう答えていいものか悩んで、
「そう。顔もみたくないから、部屋を変えてほしい」と頼み、
そのスタッフは仲直りを薦めるようなことを言いつつわたしの要求を飲んでくれました。
新しく割り当てられた部屋は前と同じ間取りで、
3つのベッドには先客の私物があるだけでだれもいませんでした。
しかし、1人ではないという安堵する気持ちと長い緊張からの解放で、
意識していなかった疲労がどっと体に現れました。
戸締まりを確認して横になるとすぐ意識がなくなり、
ルームメートが戻ってくるまでわたしは眠り続けました。
あのときのわたしは空腹よりも彼への恐怖心が勝り、翌日のバスの時刻まで部屋にこもるつもりでした。
目が覚めてからは必死にノートへ書き込み、
なにかしら文章を頭のなかで練っている間だけは不思議と落ち着くことができました。
が、喉の渇きとトイレだけはどうしても我慢ができず、
夕食のせわしくなるときを見計らって行動にでようとしたのです。
トイレは彼の部屋の脇にひとつ、キッチンを抜けた先にもうひとつありました。
人気の少ない場所で鉢合わせするのだけは避けたいと思ったわたしは、
キッチンの方を選んだのです。案の定夕食の準備に多くの人が集まり、
そのなかに3人のルームメートと仲良くしている彼の姿が見えました。
足早にやり過ごそうとすると、彼のわたしの名前を呼ぶ声が聞こえて一瞬立ち止り、
間を置かずに「腹減ってんだろ?」という彼の意外な言葉と優しい物言いに、わたしはつい頷いてしまいました。
イギリス人とオーストラリア人2人のルームメートと楽しそうに食事をしている彼をみて、
真夜中の出来事がすべて夢だったのではないかと自分自身を疑い始めていました。
わたしは話がとぎれたところで、自然に、でも内心びくびくしながら「夜どこで寝たの?」
と彼に訊ねました。すると、「リビングのソファでマッサージしてたらそのまま朝まで寝てた。
ところでなんで泣いてたんだよ。お前、たまに気味悪いことするよな」
というような返答が戻ってきました。困惑です。でも、なんでマッサージ?
という素直な疑問を彼にぶつけると、顔をしかめてかなり渋った挙句、おずおずと話してくれました。