[血雪]
前ページ

おれが思ったとおり、親父はビニールハウスを見にいくために家を出たそうだ。ビニールハウスは、おれの家の近所の、小川に毛の生えた程度の川にかかった古いコンクリートの橋を渡った先にあるんだけど、この辺はド田舎なもんで、
街灯は1キロに1本くらいしかなくて、夜は真っ暗闇に近いんだ。

都会の人にはわからないかも知れないけど、ド田舎の夜の暗闇ってのは、ホントに凄いものなんだ。
で、親父が橋の近くまできたとき、その辺に一本だけある街灯の薄暗い光のなかに、橋の上の欄干の脇で、誰かがうずくまっているのが見えたそうだ。
近づくと、それはコートを着た長い髪の女だった。親父は、こんな時間にこんな所で
何をしているのかといぶかしんだが、女が苦しんでいるようなので心配して、「どうしたんですか?」声をかけたそうだ。
そのとき親父が女の足元をみると、雪のうえにヌラヌラしたどす黒い液体がひろがっているのが見えた。
驚いた親父が女の前に屈みこむと、突然女は苦しそうな呻き声とともに顔をあげた。
目をカッと見ひらいた女の顔は、口のまわりや首のまわりが血まみれで、右手に女物の剃刀がにぎられていたそうだ。女は苦しそうな呻き声をあげながら、その剃刀を血まみれの首にあてて、そしてそれを一気にグイッと引いた。
湯気をたててどす黒い液体が噴きだし、女の胸元や足元の雪を染めていく。
親父は息が止まりそうになりながらも女から剃刀を奪い取り、それを川に投げ込んで、「馬鹿なことをするな」と怒鳴りつけて、
急いで家まで救急車を呼びにもどってきたという訳だ。
だが、親父と二人で、闇の中を雪に足をとられながら橋にきてみると、街灯のうす暗い
光のなかに、女の姿はなかった。親父は「おーい、どこにいるんだ」と女を呼んだが
返事はなく、おれもあたりの闇を見まわしたが、人の気配はない。そして不思議なことに、
女がうずくまっていたと言うあたりの雪には、親父の足跡しかなかった。
「川だ」おれは、女が川に飛び込んだんじゃないかと思い、雪に埋もれた土手の斜面を
おりて探そうとした。だが、土手下は足元も見えないほどの暗闇につつまれていて、
危険で降りられなかった。

そうこうしているうちに、救急車が雪のなかをもがくように到着し、また、駐在所の
警官も原付バイクで転倒しそうになりながらやって来た。親父は警官に経緯を説明し、
空もようやくしらみはじめたので、救急車の隊員も一緒に、周囲をさがしてみた。

だが、周囲にも、膝までの深さしかない川の橋の下にも、女の姿はなかった。
女の足跡もなく、それどころか、橋の上の雪には、わずかの血痕さえもなかった。

夜が明けてからも、止む気配もない雪のなかを1時間ほどさがしてみたが、
女がいた形跡はなに一つ見つけられなかった。
らちがあかないので、救急車は来た道を戻り、親父は警官といっしょに駐在所へ
行くことにした。書類をまとめるために、事情をあらためて聞かせてほしいとの
事だった。おれは何ともいいがたい気分で、独り家へ戻った。

続く