[ヒナ川]
氷の抱擁
とおくで寺の鐘の音が響いた。暗闇を月光だけが照らしている。立っていることが困難なほど、足がガクガクと震えた。
あの女の手招きが、ゆっくりと繰り返される度に、僕の体は川に落ちそうになる。
涙があふれてぼやけた僕の目にも、闇に浮かぶ女の赤い目だけははっきりと見えた。
見たくもないのに。
急に女が薄笑を浮かべた。右手を差し出し、僕のい
る方向を掻き毟ったように思えた。その直後に、僕の前髪が、ぐいっと手で引っ張られた。
僕は、上半身を欄干のない橋から引きずり出され、
すっかり川底が見える体勢になった。
少しでも足の力を緩めたらボトン
と川に沈んでしまうだろう。ヒナ川の流れは速く、少し下流でモズ川にながれこむ。
落ちたら、助からない。
僕は死の恐怖に泣き叫び、必死で
落ちそうな体を支えた。
だが、恐怖は、今度は川底から僕を迎えに来た。
こわばる体。青白く、藻に覆われた丸い物体。
魚についばまれボロボロ の、赤黒い両目玉。
青紫の唇。女の水死体が、水中に漂っていた。
死体は僕を見つけると、歪んだ笑みを浮かべた。
氷の様な青白い両手が水のなかから現れ、水滴を垂らし、僕の首筋にじわりじわりと絡みつく。
必
死の抵抗虚しく僕の頭は徐々に水中に引きずり込まれていった・・・。
大きな物が突然、僕にぶつかり、それが川に落ちた。波紋が、女の姿を部分的にぼやけさせ、件の両手も透明になった。呪縛から解き放たれた。
ぶつかったのは、「原住民の怨霊還し」だ。僕は一息に橋を渡った。
死んだ女に道連れにされかけた恐怖から、声をあげ泣きながら走った。僕は土手を駆上がった後、立ち止まった。弁天橋には、もう何もいない。
じっとりと汗ばんだ手を握って、恐る恐る「ムジナの橋渡し」の方を見つめた。
血と水の滴る手で、女が口惜しそうに手招きを繰り返していた。
わすれられない言葉が暗闇から響いた。「・・デ。オイデ・オ・イデ・・」 だれかに呼ばれている気がする。皆、一度はそんな経験があるだろう。
お気をつけください。貴方の背後から忍び寄る彷徨える女の手に・・。