[ヒナ川]

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 女伍子胥
大きく傾いた夕日に照らし出された黒い影は、女の様だ。田舎の土手は、
都会と違って電燈も薄暗く、昼間でも人通りが少ない。僕は驚き、目を しばたいて再び影の正体を見極めようとしたが、無理だった。
丁度そのとき、一台の自転車が、土手の上を走ってきた。

自転車が、例の人影と同じ位置に差しかかった時、影はスッと立消える様に見えなくなった。
時間を止められてしまったかのように、僕は、その場で凍りついた。

できることなら思い出したくなかった。ヒナ川弁天橋で目にした、あの異様な光景。
揚がらない、女の遺体。事件の前後に流れた正体不明の異常者の噂。
ハッと我に返った僕は、急いで家へ帰ることにした。あの何者かの影に怯えていた。
土手を駆け上がり、無我夢中でさっき来た道をもどっていく。

弁天橋がみえた。同時にその中央にじっとうずくまっている者が見えた。
群青色の服の、紅い夕日を背にした女。
はっきりと見ることはできなかったが、首をうなだれた女の、びっしょり濡れた長い
毛の先から、水が幾筋も滴り落ちる。

女がゆらゆらと立ち上がる。僕は
土手を走り、川下へ逃げた。川下に行けば、「ムジナの橋渡し」がある。
 青白と赤黒

大きな一枚板の、丈の低い平らな橋。それが「ムジナの橋渡し」。大
半の子供達はこの橋を避ける。
欄干も街燈すらもない、この古びた橋は、いつの時代に作られたのかも分からない程に、朽ちかけていた。
ふつうは絶対に渡らないこの危険な橋が、今の僕にとっては、希望を
つなぐ唯一の道だった。
途中、僕は転倒し、ブーメランを落すが、もう、それどころではなかった。

陽は、今正に沈もうとしている。灯りのないこの橋だけは、陽が沈む前に渡りきらなくては。
あたりには、人のいる気配はない。何かあっても助けは期待できない。僕はほんの少し戸惑った。だが、不安を振り払い、橋を渡りだした。慎重に、少
しずつ進んだ。その時だった。
弁天橋の女と目があってしまったのは。

口元を左右に吊り上げ、女は、血の滴る赤い瞳で僕を睨む。
女の右手
がすっと上がり、僕に手招きを始めた。足が動いてくれない。
薄気味
悪い程青白く、幾本もの濡れた髪に覆われた女の顔と、頬をつたう赤
い血の筋。その、不気味なコントラストが、僕の足を硬直させた。
ただ時間だけが過ぎていった。
もうすぐ、陽が沈んでしまう。気持ちだけが焦るが、女に手招きされ、僕の勇気は薄闇の中に溶けてしまった。

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