[聖域]

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◎空中に体が舞上って
 次の日の朝早く、帰る振りをして、お婆さんに謝して洞窟を出た二人は、
少しばかり戻ってから、問題の場所を確かめようと話し合いました。人工
衛星のとび交うご時世に、婆さんの言うような馬鹿なことがあってたまる
かいとの息子の提案に、好奇心きわめて旺盛な私が一も二もなく賛成し
たからです。
 ひどい道中になりました。ばら科の植物と強じんなつるの多い茎がから
み付き、足を取られ大変な難行軍になりました。一歩一歩が汗だくにな
り、必死の歩行なのです。二粁ほども進んだと思います。参ってしまうな
あと奥山に進んだのを後悔し始めましたが、今更引き返すことはできま
せん。
 「お母さん、前の方が変な色に変わってきたよ」
 息子は、ばらとの闘いの苦しい道程が終わりそうになった時、私に問い
かけました。私自身も先刻から、数百米ほども前方に淡い青のまじって
いる緑色のガスか霧に似たものが突然に発生して次第に大きくなり、こ
ちらの方角に進んでくる感じを気にしていたのです。長い期間山歩きを
過ごしてきた私には、このような色彩のガスを経験したこともありません
し、発生する場所と湧き上がり広がる工合も、常識では判断できない現
象でした。この時刻と現在の天候状態では、ガス、霧ともに湧くはずがな
いのです。

これが田代峠の奥に存在すると言われている不明の正体なのかと、さす
がにぎょっとして足を停めようとしましたが、自分の意志とは正反対に、
足の方で動きをとめてくれません。私より数歩だけ前を進んでいた息子
も同じ思いだったそうです。ガスはますます濃くなって、私達の方に向
かって輪を広げてきて、私達は見えない引力にずるずると引き込まれて
いくのでした。
 前を歩いていた息子が、真青な顔を私に向けて叫びました。「お母さん。
これ」山歩き用に使っていて、私が息子に持たせておいた大型の携帯用
羅針盤を指差していました。あとは恐怖で言葉が出ないらしいのです。必
ず北を示していなければならない指針が、無暗にぐるぐる回るだけで、不
安定な針先はどこを差しているのか見当がつきません。そんな信じられ
ないことがと、羅針盤を水平に持ち直しても、同様に針は固定せずに大
きく回ったり鋭く振れ動いて、決まった所を差さないのです。不安定な振
れがおさまると、前方の方角に固定してしてしまいました。初夏の太陽の
方向と言えば、東か南です。磁石の北に向くべき針が、東南に。あり得
べからざる事態に仰天してしまいました。そして、指針に向かって私達
の身体までが、吸い込まれるように動かされていることに気付きました。
続く