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峠まで歩きましたが、八粁足らずの道程だと思っていましたのに、背丈
ほどもある熊笹をかき分けるのに手間どって、予想外に時間を費やして
しまい、日の長い五月の一日も暮れようとしていました。山のベテランと
もなると、用意のテントも持参していますし、野宿は平ちゃらです。さすが
に人跡未踏のこのあたりでは、見たこともない超良質のぜんまいがそこ
ら中にあって、うなっていました。
 今晩は泊まり、明日は一日中かけて、山菜を集めれば、運び切れない
ほどのえらい数量のぜんまいを確保できそうだ。二人で採れば六十キロ
は超すに違いない。乾燥しても六キロは出ると計算しました。キロ当たり
一万ですから、六万円以上になりそうだと、われながらみみっちい計算を
していました。
 突然、私達の目の前に老婆が現れました。初夏の日暮れの逆光線を
浴びて、音もなく姿を見せたとき、私と息子はぎょっとしたのです。乱れた
髪としわだらけの顔はよいとしても、ぼろ切れなのか南京袋をほごしたも
のなのか、衣裳めいたのを身にまとって、帯の代わりに蔦を使っていま
す。どうしてもこの世の人とは思えない形相でした。地底から涌き出るよ
うな声をしぼって、何やら尋ねているのです。私は山の衆と言われている
独特のまたぎ≠フ言葉も知ってますが、それとも違うようでした。判ず
ると、お前さん方はどこに行くつもりなのか。峠から向こうには行っては
いけない。今晩はおそいから自分の住処に泊まっていけ。そんな意味で
した。

案内された住処というのは、山の中腹に掘った洞窟でした。家財道具ら
しいものは何もないのです。洞窟内の地べたに炉を作っていて、手製ら
しい土鍋の中には、とうもろこしと、何ともわからない肉片の塩じるでした。
鍋ごと食えとのことでしたが、盛り付ける茶碗や皿がなかったのです。
水のしずくがしたたり落ち、がらんとした洞窟は、松やにの灯に黒ずんだ
岩肌が不気味に光っていて、休むどころではありません。老婆の姿をし
げしげと眺める毎に、原始的な服装と動作のテンポが常人と違っていて
、なぜこんな山奥に独りで生きているのか、分からなくなってくるのでした
。言っていることは、半分ほど理解されましたが、
 「お前さん方は、翌朝になったら、峠から戻ってくれ。一歩でも入ったら
、どんな災難が降ってくるかも知れない。うちの旦那は、あそこに出掛け
たきり戻って来ないし、最近では、地図作りのお役人さんと営林署の人
が、止めるのも聞かずに行って、次の日には死体となって烏や鷹の餌に
なってしまった。悪いことは決して言わないから、必ず実行してくれや」
 との意味でした。予想通り、普通の人間が現場に近寄ると、なにかの
理由によって、不幸な事態になるらしいことは、彼女の言によっても了承
できるのでした。でも、その正体を突きとめたい気持ちも十分にありまし
た。

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