[天使]
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アパートに入居した俺は、住人による監視の目に晒されていた。
彼らの視線に気付かない振りをしながら、俺はまず、住民の中に溶け込む事に集中した。
やがて、俺に注がれる警戒の視線は弱まり、半田親子との接触も増えていった。
住民と半田親子を観察していて気付いた事があった。
大家を始め、このアパートの住人は、一癖も二癖もある連中ばかりだった。
半田親子が彼らの監視・保護下にあるのは間違いなかった。
しかし、そんな住民達の奈津子へ向ける視線は監視と言うには少々違和感のあるものだった。
教団の指令?や奈津子の『力』への恐怖ではなく、彼女は住民に愛されていたのだ。
奈津子は、立振舞いが少々幼く、言葉も上手くはなかったが、澄んだ目をした女だった。
ありがちな容貌上の『歪み』もなく、見た目は魅力的で健康な普通の女であり、一目見ただけは精神の遅滞など感じられなかった。
人懐っこい無邪気な彼女の笑顔は、人の気持ちを安らがせる不思議な魅力があった。
母親の千津子もそうだったが、この親子の柔らかい雰囲気は人を癒す不思議な力があった。
溶け込んでみると、このアパートには奈津子を中心に居心地の良い幸せな空間が形作られていたのがわかった。
半田親子には、『呪殺』を生業にした恐るべき呪術者の血筋である事、多くの人を死に至らしめた『能力者』の片鱗も見られなかった。
俺自身が奈津子に癒され、当初の目的を忘れかけていた。

入居して直ぐに、俺は、サポート役との接触の足として、中古のGB250を手に入れた。
ある日、アパートの前でバイクの整備をしていると、いつの間にか奈津子が近くにしゃがみ込んで、興味深そうに俺の作業を見守っていた。
工具を操る俺の手の動きを目をくりくりさせながら追う様子が愛らしい。
整備が終わった所でキーを挿し、セルを回してエンジンを始動させると、奈津子は「おおっ」と言って手を叩いて喜んだ。
俺は奈津子に「乗ってみるかい?」と声を掛けた。
奈津子は、首を傾げてちょっと考え込むと「うん!」と答えた。
俺は「ちょっと待ってな」と言って、部屋から紫のサテンに鳳凰の刺繍が縫い込まれたスカジャンとヘルメットを持ってきた。
痩せて小柄な奈津子には両方とも大きすぎたようだ。
奈津子の細い肩から上着がずり落ちそうだ。
ヘルメットはどうしようもないので、頭にタオルを巻かせ、アパートの廊下に転がっていたドカヘルを被せて俺達は出発した。
バイクに乗せてから、奈津子は急速に俺に懐いていった。
時々奈津子を後ろに乗せて、走りに出るのが俺にとっても楽しい時間になっていた。
俺は奈津子用のヘルメットを買い与え、紫のサテンの色が気に入ったらしい奈津子にスカジャンも与えた。
奈津子はバイクに乗るとき以外も、サイズの合わないだぶだぶの上着を着て歩くようになった。
こうして、俺は、半田親子の中に入り込むことに成功した。

奈津子が俺に懐くようになって、他の住民たちとの関係も急速に好転した。
だが、同時に異変も起き始めていた。
深夜、時々『怪現象』が起こるようになってきたのだ。
電化製品の誤作動や停電、人が近づくまで鳴り止まないピンク電話・・・
金縛りにあった俺は、女のすすり泣く声を聞いた。頭の中に響いてきたその声は、奈津子の声だった。
どうやら、他の住民達も、形や程度は様々だが、各々『怪現象』に見舞われていたようだ。
耐えられずにアパートを出て行った者もいた。
だが、古株の住人達は慣れていたらしく、慌てる者は居なかった。
深夜の怪現象にも拘らず、昼間の奈津子は、いつもと変わらずニコニコと笑顔を振りまいていた。
やがて、怪現象の原因が判ってきた。
現象が起こるのは、決まって、ある男が半田家に立ち寄った日だった。
この男こそが、奈津子に韓国での結婚話をしきりに勧めていた飯山という教団幹部だった。
飯山は強い調子で半田親子に奈津子の結婚を迫っていたようだ。
大家が間に入って親子を庇っていたようだが、教団に庇護されて生活する身で、これ以上の抵抗は不可能だった。
飯山の訪問の頻度が上がるにつれて、半田親子は心労のためか暗い表情を見せるようになった。
俺は奈津子をバイクに乗せて、近くの川まで花見に連れ出した。
同じアパートの住民の男が開いている露店でタコヤキを買って、露店のベンチで食べながら俺は奈津子に言った。
「なあ、なっちゃん。嫌な事は嫌だと言わないと判って貰えないよ?
俺もアパートのみんなも、大家のおばさんだって、皆なっちゃんの味方だよ」
露店の親父もうなづいている。
「自分の気持ち、正直にあのオッサンに言ってみなよ。そうしないと、いつまでも終わらないよ?」

続く