[幻の女]

どれくらい眠っていたのか、その時の俺には判らなかった。
だが、「ねえ、そろそろ起きない?私、もう行かなきゃいけないんだけど」と言う声で俺は眠りから覚まされた。
声の主は多分、アリサだったと思う。
頬に手を触れられる感覚で、朦朧としながらも俺は目を開いた。
眩しい白い光が俺の網膜を突き刺す。
徐々に明るさに慣れてきた俺の目は見知らぬ天井を見上げていた。
目が回り、吐き気が襲ってくる。
体が異常に重く、全身の筋肉が軋んで痛む。
状況が飲み込めずに呆然としていると、ベッドの横のカーテンが開き、見覚えのある女が俺の顔を覗き込んだ。
2・3年ぶりに見た顔だったが、姉に間違いなかった。
霧のかかった俺のアタマでは姉が何を言っていたのか判らなかったが、慌しい人の気配を感じ、俺は再び眠りに落ちて行った。

ヨガスクールの事件が終わり、マサさんと飯を食った後、俺はその足でアリサのマンションを訪れた。
インタホンを鳴らし、エントランスを通ってアリサの部屋まで上がると、アリサは俺を歓待した。
手土産の花とケーキの箱で両手が塞がった俺にアリサは抱き付いた。
「お仕事は終わったの?」
「ああ」
「う〜、女の人の臭いがする・・・」
「えっ?!」
「・・・嘘よw」
リビングのソファーに腰を下ろす俺に紅茶とケーキを出すと、アリサは寝室へと引っ込んだ。
寝室から戻ったアリサはラッピングされた箱を俺に渡すと「ハッピーバースデー」と言った。
すっかり忘れていたのだが、俺が山佳京香ヨガスクールに潜入している4ヶ月弱の間に、俺の誕生日は過ぎていた。
箱の中身は、俺がその時使っていたものと同じカスタムペイントの施されたバイク用のヘルメットだった。
このペイント・・・マサさんが、俺の行き付けのショップを紹介したのだろうな・・・
俺はアリサに「ありがとう。大事に使わせてもらうよ」と礼を述べた。

俺の言葉に「うん」と答えたアリサの表情は浮かなかった。
こういう時は殆どの場合、彼女は厄介事を俺に隠していた。
そして、彼女の厄介事とは、まず間違えなくストーカー関係のトラブルだった。
俺が彼女と知り合う切っ掛けとなったのも、彼女の知人経由で悪質なストーカーからのガードを依頼されたことからだった。
アリサには強い霊感と共に、人を惹きつける不思議な吸引力があった。
それがある種の男達を繰り返し惹き付けた。
アリサに惹き付けられた男達は、一様に彼女に対し強い嗜虐心を煽り立てられるようだ。
だが、アリサがストーカー被害を相談できる相手は、ごく少数の者に限られていた。
警察に相談すれば?と言う疑問もあるとは思うが、ニューハーフだった彼女はストーカー被害を警察に相談して余程屈辱的な扱いを受けたのだろう。
彼女は警察を全く信用しておらず、相談の相手は俺や、以前働いていた店のママなどに限られていた。
俺は、ママに言われたからではなく、アリサを守ることは俺の仕事・・・そう心得ていた。
だが、俺のストーカーに対する「制裁」が苛烈すぎたのだろう。
アリサはギリギリまで俺に隠して自己解決を図ろうとした。
自己解決・・・ストーカーが諦めるのを待って、ただ耐えるのが「解決」と言えればの話だが。
そもそも、ストーカー被害を第3者の力を借りずして解決するなど、まず不可能な事なのだ。
俺はアリサを問い詰めた。
アリサが俺に語った話は意外なものだった。

俺の不在中、案の定アリサはストーカーに付き纏われていた。
アリサはキムさんの「表」の仕事関連の事務を請け負っており、その関連で彼女のストーカー被害がキムさんの耳に入った。
自宅と事務所の往復は事務員の男性の申し出で、彼の通勤の車に便乗していたようだ。
だが、それだけでは心許なく、キムさんはかつて行動を共にしたことのある権さんをアリサのガードに付けた。
以前、「裏」の仕事に協力してくれたということで、キムさんの計らいによるノーギャラでの警護だった。
ストーカーの正体は意外な形で明らかになった。
犯人は北見という男だった。
北見は以前にもアリサに対してストーカー行為を働き、俺の手による「朝鮮式」のヤキで一度目は「電球」を、二度目は尿道でポッキーを喰わされた男だった。
北見のアリサに対する異常な執念は恐ろしいものだったが、そんな北見がアリサのマンション近くの路上で刺されたのだ。
北見の怪我自体は重傷ではあるが、命に関わるものではなかった。
警察は治療が終わり北見の意識が回復すれば、本人から犯人に付いての供述を得られると考えていたようだ。
しかし、麻酔から覚め、意識を取り戻した彼は心神喪失の状態にあり、何かに激しく怯えるばかりで供述を得られる状態では無かったようだ。
捜査は難航し、犯人は捕まらなかった。
だが、北見が再起不能になって、アリサへの嫌がらせはピタリと止んだ。

続く