[シャンバラ]
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俺がキムさんの下でケタミン注射を受けて「神秘体験」の予行練習をしたのは「特別コース」の3日ほど前のことだった。
「特別コース」を薬物を用いて幻覚を見せる、カルト宗教にありがちなインチキ「儀式」と踏んでいたからだ。
薬物らしいものも用いられたが、「特別コース」は目的は兎も角、比較的まともな「行」を行う本格的なものだった。
高まった気を全身に循環させて浄化して、丹田なり、ヨガ行者が重視する尾底に導いて溜め込めば文句の付け所はなかったのだろう。
ケタミンを静脈注射された俺は臨死体験とも形容される独特な幻覚に襲われた。
暗く深いトンネルに大轟音と共に吸い込まれた俺は、途切れそうな意識を何とか繋ぎ止めながら、幻覚を見続けた。
トンネルの向こうから突き刺す強烈な光、緑色の雲のカーテン、真っ赤な光の迷路。
この世の全てを理解したかのような形容し難い全能感。
言葉では表現不可能な異様な幻覚に襲われ続けていた。
トンネルに吸い込まれて数分後か数千年後かは判らなかったが、俺は元居た部屋に戻ってきていた。
身体には「実在感」があり、部屋の空気も感じられた。
誰か人の気配を感じて後ろを振り向くと、ソファーに深く身体を沈めた俺が居た。
俺は自分の身体に触れてみようとしたが、どうしても触る事が出来なかった。
更に俺は、テーブルの上の蝋燭の炎に手をかざしてみた。
手に熱さを感じることは出来なかった。
熱くないと思った瞬間、あれほどリアルだった自分の体や部屋の存在感は揺らいだ。
おれは、蝋燭から意識をそらし、部屋の出口を探した。
俺はビルの階段を下り、建物の外に出た。
普段と変わらない通りの雑踏。
現実感はあるものの、通行人は俺を避けず、俺も避けようしなかったが、俺が通行人にぶつかる事はなかった。
女霊能者の話では、瞑想修行中の霊能者は、この状態になると自分の知っている道をひたすら歩いて進むのだという。
道を進むと、やがて、これ以上先は知らないというポイントに至るそうだ。
これより先の、知らない道を進むには強い霊力や気力が必要だという事だ。
道が何処に続いているかは、術者の精神レベルや状態、煩悩や功徳、背負っている業などによってまちまちなのだという。
術者は六神通を駆使して「異世界」に分け入って行くそうだ。
この状態を指すのか、この道を辿る瞑想技法を指すのかは判らないが、チベットやインドでは、この「道」にまつわる瞑想を「リンガ・シャリラ」と呼ぶそうだ。
俺は「リンガ・シャリラ」によって道を辿る前に、聞いたことのない誰かの声に呼び戻され、シュワーという泡のような音と共に、元居た部屋の現実世界に引き戻された。
ケタミンによる臨死体験。魅惑的な幻覚世界だったが俺には非常に危ういものに思われた。
女霊能者の話では、見知らぬ道を突き進み、到達した世界が何処なのかを判断するには「漏尽通」の神通力が必要なのだという。
だが、漏尽通は非常に脆い神通力で、功徳を積み全ての煩悩を「止滅」させなければ発揮できないが、発揮できても自己の僅かな煩悩や願望、先入観によって容易に歪められてしまうそうだ。
六神通の他の神通力によっても歪められ、甚だしくは、他の五神通が得てもいない漏尽通を得たものと誤解させる。
それまでの修行で得た成果、現や果、「悉地」への執着を捨て、全ての神通力を放棄した先でしか漏尽通は得られないらしい。
神秘体験や神通力にのみ執着し、功徳を捨て、手段を選ばない京香たち「外道者」では、到底及びそうにない境地なのだ。
続く