[黒い影]
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高校3年生の冬、夜中に母親の声で目が覚めた。
廊下へ出ると、母親の部屋の前に住職と住み込みの坊主がいて、中を覗き込んでいた。
母親は半狂乱になって何かを訴えていた。
「黒いやつが来た」「もうダメだ」「大丈夫だと思っていたのに」「また逃げなければ」
そんなことを錯乱気味に口走っていた。
私は、また始まったと思い「いい加減にしろ!」と母親を罵倒した。
住職は、そんな私を怖い目で睨み付けたが、何も言わなかった。
私はうんざりして部屋に戻り、眠ってしまった。

次の日、学校から帰ってみると、離れの前の中庭に護摩壇がしつらえてあった。
驚く私の目の前で、白装束に身を包んだ母親が、住職と一緒に護摩壇のすぐ側で
一心不乱にお経を唱えだした。
時折水を浴び、また護摩壇に向かう。それを何度も何度も繰り返していた。
私も、最初は呆気にとられてその光景を見ていたが、すぐに馬鹿馬鹿しくなってしまい、
部屋に戻った。しかし、部屋にいても、外からはお経や掛け声が聞こえてくる。
心底うんざりした私は、寺を出ると友達の家に泊まりに行った。

次の日の朝、寺に戻ってみると、驚いたことに母親はまだ同じ事を続けていた。
私は母親を止めようとしたが、住職やほかの坊主に阻まれ、あまつさえ
「昨日は何処へ行っていたのか」などと詰問された。
呆れかえった私は、なおも詰め寄る住職を無視して部屋に戻り、学校に行った。
そんな事が3日ほど続き、疲れ切った母親はぶっ倒れて、自分の部屋で寝込んでしまった。

次の日、母親は部屋で首を括って死んだ。
私は、悲しみと同時に怒りを感じた。
母親を自殺にまで追い込んだのは、この寺のせいだと思った。
素人の母親が荒行を3日も続けたことにより、心身共に疲労困憊して精神に異常を来し、
ついに自らの命を絶ってしまった。その時の私は、そう確信した。
葬儀が終わった後、私は住職を捕まえて、母親に対する仕打ちを非難し、
寺での生活について口汚く罵った挙げ句、半ば飛び出すように寺を出た。

高校を中退した私は、職を変えながら、各地を転々として過ごした。
大型免許を取ってからはトラックの運転手を始めたが、一所に落ち着くことはなかった。
幼い頃の引っ越し三昧が、尾を引いていたのかもしれない。

そんな私にも転機は訪れた。
勤務先の会社でバイトの女の子とウマが合い、付き合っている内に子供が出来た。
すでに同棲はしていたし、その頃は好景気で私の稼ぎも安定していたため、
いっそのこと結婚してしまおう、ということになった。
私が天涯孤独の身であったことが、向こうの親には気がかりだったようだが、
子供が出来たという既成事実と、それまでの堅実な暮らしっぷりもあって、
結婚はスムーズに決まった。
やがて子供が生まれ、私も、この地で腰を落ち着けていることを実感するようになった。
長距離のドライバーだったので、家を空けることが多かったものの、
休日に妻や子供と戯れている時などに、かつて味わったことのない家族の温もりを感じた。
その頃の私は、この幸せがいつまでも続いて欲しい、と切に願っていた。
しかし、そうはならなかった。

ある日、不意に夜中に目が覚め、何だか嫌な感じがして眠れなくなった。
隣では妻と2才になる子供が眠っている。
しばらくその姿を見ている内に、何か視線のようなものを感じて天井の隅に目をやった。
そこに濃い影ができていた。
部屋は豆球の明かりでほんのり明るいのだが、その一角だけが光が届かないかのように
真っ暗になっている。
目を凝らしてみると、その奥で何かが蠢いているようにも見えた。
不意に母親の言葉を思い出した。
「黒いやつが真っ先に見つける」「黒いやつが来た」
私は、バカげた考えを振り払おうとしたが、上手くいかなかった。
眠れぬままに、そこを見つめながら朝を待った。
影は、外が明るくなると次第に薄れていった。私は寝不足のまま仕事に向かった。

翌日の夜も影は現れた。
相変わらず、そこからこっちをじっと見ているような視線を感じる。
その夜も眠れなかった。
次の日は仕事が休みだったため、私は病院へ行った。
医者は「ストレスからくる幻覚だろう」と言い
「しばらく仕事を休んではどうか?」と提案した。
私が「それはできない」と言うと、薬を出してくれた。

薬を飲んだにもかかわらず、夜中にまた目が覚めた。
部屋の隅を見ると、黒い影が、またこっちを見ている。
気のせいか、前の日よりも大きくなっているように見えた。
ふと、背中に気配を感じて振り向くと、茶の間に鎧姿の武士が立っていた。
面当てで顔は見えないが、こっちを見ている気配は感じる。
すんでのところで悲鳴を堪えた。
「幻覚だ、幻覚なんだ」と必死で自分に言い聞かせながら、妻と子供の方を見た。
妻の布団の上に、白い着物をきた老婆が座ってこっちを睨んでいた。
私は意識を失った。

続く