[帰省]
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空気がおかしいのです。家を包む空気が澱んでいるようで、
自分がかつてこのようなところに暮らしていたのかと思うほどでした。
迎えに出てくれた父の顔も暗くどんよりとしたもので、
私の心にあった父のイメージとかけ離れていました。
家の中に入っても、澱んだような空気は変わらず、
むしろより強くなっているようです。
古井戸の底の空気というのはこういったものなのかもしれません。
彼女を両親に紹介したのですが、なんだかお互い口数も少なく、
ほんとうに形だけのやり取りのように済まされました。
私以上に、彼女のほうが何かを強く感じているようで、
いつもの明るい彼女とは別人のようでした。
しきりにこめかみを押さえたり、周囲を気にしたり、落ち着きの無い様子で、
私が話しかけても俯いたまま聞き取れないような小さな声で何事かつぶやくだけなのです。

私自身、家の中の何か異様でただならぬ空気を感じていたので、
彼女に対してもう少し明るく振舞ってくれなど言えませんでした。
ただ、これ以上気まずい雰囲気にならなければと思っていました。
夕食のときも、お互い積もる話があるはずなのに、
誰の口からも言葉が出ることなく、
食べ物を咀嚼する音だけが静かな部屋に響いていました。
食後、私の母が彼女にお風呂を勧めたのですが、
彼女は体調が優れないのでと断り、私が入ろうとしたときも、
一人で部屋に残るのが心細いのか、早く戻ってきてと言いました。
その様子があまりに真剣なので、私も不安になり、
いやな予感もしたので風呂に入るのをやめて、
そのまま母が敷いてくれた蒲団につき、早々と寝ることにしました。

電車に長時間乗っていた疲れもあってか、
彼女は明かりを消すとすぐに寝ついたようで、
安らかな寝息が私の傍らから聞こえはじめました。
普段から寝つきの悪い私はいつもと違う枕と蒲団の中で、
さまざまな事柄が頭の中でちらついてなかなか眠れませんでした。
この家全体に満ちている澱んだ空気、断片的に思い出される記憶、
私は落ち着き無く寝返りを繰り返し、いろいろなことを考えていました。
家の前にガソリンをばら撒いて火を放った伯父さん、
あれから一度も姿をみせず、何年後かに亡くなったと聞かされたが実感が無かった、
葬式も無く、ただ死んだときかされた。
幼いうちに死んだもう一人の伯父さんはちゃんとお葬式をしてもらえたのだろうか、
そんなことを考えているうちに、
私はこの家に漂う澱んだ空気を吸うことさえ厭な気がしてきました。

続く