[黒い手]
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次の日、つまり5日目。
僕は師匠の家へ向かった。
音響は5日目までは持っていた。正確には6日目までだが、少なくとも5日目
までは持っていられた。
僕はこれから起こることが恐ろしかった。
多分、箱の位置が変わったり、頬を撫でられたりといったことは文字通り触り
に過ぎないのではないかという予感がする。
こんなものはあの人に押し付けるに限る。
師匠の下宿のドアをノックすると、「開いてるよ」という間の抜けた声がし
たので「知ってますよ」と言いながら箱を持って中に入る。
胡坐を組んでひげを抜いていた師匠が、こちらを振り向いた。
「かえせよ」
え?
何を言われたかよくわからなくて聞き返すと、師匠は「俺いまなにか言ったか?」
と逆に聞いてくる。
よくわからないが、とりあえず黒い手の入った箱を師匠の前に置く。
なにも言わないでいると、師匠は「はは〜ん」とわざとらしく呟いた。
「これかぁ」
さすが師匠。勘が鋭い。
しかし続けて予想外のことを言う。
「俺の彼女が、『逃げろ』って言ってたんだが、このことか」
その時はなんのことかわからなかったが、後に知る師匠の彼女は異常に勘が
鋭い変な人だった。
「で、なにこれ」
と言うので、一から説明をした。なにも隠さずに。
普通は隠すからこそ次の人に渡せるのだろう。しかしこの人だけは隠さない
ほうが、受け取ってくれる可能性が高いのだった。

ところがここまでのことを全部話し終えると、師匠は言った。
「俺、逃げていい?」
そして腰を浮かしかけた。
僕は焦って「ちょっと、ちょっと待ってください」と止めに入る。この人に
まで見捨てられたら、僕はどうなってしまうのか。
「だけどさぁ、これはやばすぎるぜ」
「お払いでもなんでもして、なんとかしてくださいよ」
「俺は坊さんじゃないんだから・・・・・・」
そんな問答の末、師匠はようやく「わかった」と言った。
そして「もったいないなあ」と言いながら押入れに首をつっこんでゴソゴソ
と探る。
「お払いなんてご大層なことはできんから、効果があるかどうかは保障しな
いし、荒療治だからなにか起こっても知らんぞ」
そんなもったいぶったことを言いながら、手には朽ちた縄が握られていた。
「それ、神社とかで結界につかう注連縄ですか」と問いかけるが、首を振ら
れた。
「むしろ逆」
そう言いながら師匠は、黒い手のおさまった箱をその縄でぐるぐると縛り始めた。
「富士山の麓にはさぁ。樹海っていう、自殺スポットていうかゾーンがある
 だろ。そこでどうやって死ぬかっていったら、まあ大方は首吊りだ。何年も、
 へたしたら何十年も経って死体が首吊り縄から落ちて、野ざらしになってると
 そのまま風化して遺骨もコナゴナになってどっかいっちまうことがある。
 でも縄だけは、ぶらぶら揺れてんだよ。いつまで経っても。これから首を吊
 ろうって人間が、しっかりした木のしっかりした枝を選ぶからだろうな」

聞きながら、僕は膝が笑い始めた。
なに言ってるの、この人。
「一本じゃ足りないなあ」
また押入れから同じような縄を出してくる。
キーンという耳鳴りがした。
「どうやって手に入れたかは、聞くなよ」
こちらを見てニヤっと笑いながら、師匠は箱を見事なまでにぐるぐる巻きに
していった。
そのあいだ中、師匠の部屋の窓ガラスをコンコンと叩く音がしていた。
絶対に生身の人間じゃないというのは、師匠に聞くまでもなくわかる。
わーんわーんという羽虫の群れるような音も、天井のあたりからしていた。
師匠はなにも言わず、黙々と作業を続ける。
そのうちドアをドンドンと叩く音が加わり、電話まで鳴り始めた。
僕は一歩も動けず、信じられない出来事に気を失いそうになっていた。
師匠が今しようとしていることに触発されて、騒々しいものたちが集まって
きているような、そんな気がする。
耳を塞いでも無駄だった。
ギィギィというドアが開いたり閉まったりするような音が加わったが、恐る
恐る見てもドアは開いてはいない。
「うるせぇな」
師匠がボソリと言った。
「おい、なにか喋ってろ。なんでもいいから。こんなのは静かにしてるから
うるせぇんだ。静寂が耳に痛いって、あるだろう。あれと同じだ」
それを聞いて、僕は「そうですね」と答えたあと何故か九九を暗唱した。
とっさに出たのだがそれだったわけだが、いんいちがいちいんにがに・・・・・・
と口に出していると、不思議なことにさっきまであんなに存在感のあった
異音たちが、一瞬で世界を隔てて遠のいていくようだった。

続く