[黒い手]
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箱の位置を確認するのに、どうして見回さなければならないのか、その時は
おかしいと思わなかった。
本棚の上にあった。置いた時のままの状態で。
けれど、僕の頬に触ったのは手だった。それもひどく冷たい手の平だった。
思わず箱の蓋に手をかける。そしてそのままの姿勢で固まった。
昔から「開けてはいけない」と言われたものを開けてしまう子供ではなかった。
触らぬ神に祟りなしとは、至言だと思う。でも、そんな殻を破りたくて、師匠
の後ろをついていってるのじゃないか。
そうだ。それに箱を開けたらダメだとか、そんなことは噂にはなかった。音響
が言っているだけじゃないか。
そんなことを考えていると、ある言葉が脳裏に浮かんだ。
僕はそれを思い出したとたんに、躊躇なく箱の蓋を取り払った。
中にはガサガサした紙があり、それにつつまれるように黒い手が1本横たわっ
ている。
マネキンの手だった。
ハハハハと思わず笑いがこみ上げてくる。こんなものを有難がっていたなんて。
手にとって、かざしてみる。
なんの変哲もない黒いマネキンの手だ。左手で、それも指の爪が長めに作られ
ているところを見ると、女性用だ。案の定だった。
あの時、音響は確かに言った。「結婚指輪でも買ってやれば・・・・・・」
つまり、左手で、女性なのだった。
「開けるな」と言っておきながら、音響自身は箱を開けて中を見ている。そう
確信したから僕も開けられた。
なんだこのインチキは。

僕はマネキンの手を放り出して、パソコンを立ち上げた。
今頃あのスレッドでは担がれた僕を笑っているだろうか。
ムカムカしながらスレッド名をクリックすると、予想外にも黒い手の話は全然
出てきてなかった。
すでに彼らの興味は次の噂に移っていた。音響はなんと言っているだろうと
思って探しても、書き込みはない。過去ログを見ても、あれから一度も書き込ん
でないようだ。
逃げたのか、とも思ったがなにも彼女に逃げる理由はない。俺に追及されても
「バーカバーカ」とでも書けばいいだけのことだ。
それにもともと音響は、常連の中でも出現頻度が高くない。
週に1回か多くても2回程度の書き込みペースなのだ。あれから4日しかたって
いないので、現れてなくても当然といえば当然なのだった。
ふいに、マウスを持つ手が固まった。
週に1回か2回の書き込み。
心臓がドキドキしてきた。
去っていった恐怖がもう一度戻ってくるような、そんな悪寒がする。
気のせいか、耳鳴りがするような錯覚さえある。
過去ログをめくる。
『黒い手を手に入れた』日曜日
僕が目に留めた音響の書き込みだ。
そしてその次の音響の書き込みは・・・・・・
『いーよ』金曜日
5日開いている。
ちょうどそんなペースなのだ。だから、おかしい。
その翌日の土曜日に音響は黒い手を僕にくれた。
だから、おかしい。
音響が黒い手を手に入れてから、その土曜日で6日目なのだ。

黒い手に出会えたら願いがかなう
そのためには黒い手を1週間持っていないといけない
たとえどんなことがあっても

信じてないなら、持っていてもいいはずだ。あとたった1日なんだから。
それでなにも起きなければ、「やっぱあれ、ただの噂だった」と言えるのだから。
信じているなら、持っていなければならないはずだ。あとたった1日なんだから。
それで願いがかなうなら。
どうしてあとたったの1日、持っていられなかったんだろう。
頭の中に、箱を持った僕をファミレスのガラス越しにじっと見ていた音響の姿
が浮かぶ。当時そんなジャンルの存在すら知らなかったゴシックロリータ調の
格好で、確かにこっちを見ていた。その人形のような顔が、不安げに。
ただのマネキンの腕なのに。
僕は知らず知らずのうちに触っていた右頬に、ギクリとする。忘れそうになって
いたが、さっきの冷たい手の感覚はなんなのだ。
振り返ると、箱はテーブルの上にあった。黒い手は箱の中に、そして蓋の下に。
一瞬びくっとする。
僕はゾクゾクしながら思い出そうとする。「放り出した」というのはもちろん
レトリックで、適当に置いたというのが正しいのだが、僕は果たして黒い手を
箱に戻したのだったか。
箱はぴっちりと蓋がされて、当たり前のようにテーブルに横たわっている。
思い出せない。無意識に、蓋をしたのかも知れない。
でも確かなことは、僕にはもうあの蓋を開けられないということだ。
徐々に冷たさが薄れかけている頬を撫でながら生唾を飲んだ。5角形と5本の棒。
1本だけ太くて5角形の辺1つに丸々面している。親指の位置が分かればどっち
かくらいは分かる。
その頬の冷たい部分は右手の形をしていた。

続く