[彼]
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今考えてみればホームで見たのは『彼』ではなかったのかもしれません。
あの駅を最寄りにしているのは私の学校の生徒だけではありませんし、
他校の生徒を『彼』と見間違えてしまった可能性は大いにあります。
しかし私にはあれは間違いなく『彼』であったように思えるのです。
その理由として、翌日から『彼』の姿を目にすることが一切なくなったからです。

『彼』を駅で見た翌日、楽天的な私とは言えど、さすがに学校に行く気にはなりませんでした。
けれども事情を知らない母は私を学校へ送り出そうとします。
頭痛がするとか吐き気がするとかありきたりの言い訳を重ねてはみましたが、
仮病など通用するはずもなく、私はさっさと送り出されてしまいました。
いっそ学校をさぼってしまおうかなどとも考えましたが
どうせ『彼』は校外にも現れるのですから無駄なことです。
人でないもの相手に何をどうしようもないと肚をきめて、
ほとんどやけくそのような気持ちで登校したところがどこにも『彼』の姿がないのです。
それから三日ほどは私も警戒心いっぱいに過ごしていたのですが、一向に『彼』は現れません。
そうなると調子のいいもので、この一週間くらいのことは夢でも見ていた気になり、
すっかり元気を取り戻した私はまた以前のように気楽な高校生活を過ごしたのでした。

『彼』の話はこれで終わりです。
長い割にさして恐ろしくもない話で申し訳ありません。
『彼』が何者であったのか、何故私の前だけに姿を現したのかはわかりません。知る術もありません。
結局私には何の実害もなかったのですから。
ただひとつだけ、関連があるかどうかはわかりませんが、
『彼』が姿を見せなくなった後に妙なことがありました。


後と言いましても二ヶ月以上も後、冬休みも過ぎて三学期始めのことです。
私のクラスメートのある男子生徒、仮に杉田君としておきましょう、その杉田君が退学したのです。
退学ごとき、とお思いでしょうがこれがどうも妙で、
ある日突然彼は学校に登校しなくなり、次の日には机が片付けられ、
杉田は退学したと一言告げられたのみで、私達にとっては
ほとんど行方不明のような形でクラスから居なくなってしまいました。
学校に来なくなる前日まで彼はいつものように明るく冗談を飛ばしておりましたし、
私自身杉田君と言葉を交わしもしましたが別段変わった様子はありませんでした。
それが突然退学し、しかも一切の連絡がつかなくなってしまったのです。

杉田君と親しい者の中には心配して彼の家を訪ねて行った者もありましたが、
家には人の居る様子はあるものの、呼び鈴を押しても何の反応も無かったということです。
暫くは嘘だとも本当だともつかない彼の噂がまことしやかに校内を飛び交っていましたが、
次第にそれも終息し、杉田君のことは皆の記憶から薄れてゆきました。
実際、何らかの事情があって突然の退学ということにならざるを得なかったのでしょうから、
いつまでも心ない噂話をするのに皆の気が咎めたのかもしれません。
しかし私にはその噂話が今でも心に引っ掛かって仕方ないのです。
噂とはこのようなものでした。

杉田君の退学後、彼と親しかった友人らが家を訪ねたところが、
中からは人の声がするにも関わらず、呼び鈴を鳴らしても一向に出て来る気配が無い。
どうにも埒があかないので家の裏側に回って様子を窺うと、
窓には真っ黒いカーテンが引かれてあって中の様子がさっぱりわからない。
皆がっかりしてもう帰ろうとなったところでその中の一人がふと気付いた。
おい、あれはカーテンではなく学ランじゃないか、と。
杉田君の家の窓にはなぜか何着もの学ランがカーテンのようにかけられていた…とこういうわけです。

あくまで噂話ですから真偽の程はわかりません。
しかしその話を聞いたときの私の気持ちは言わずともおわかりでしょう。
制服の『彼』は一体何ものであったのか。
『彼』と杉田君は関係あるのか。
何故私には何もなかったのか。
私が知らなかっただけで杉田君にも『彼』が見えていたのか。
杉田君は一体どうしてしまったのか…いくら考えてみても何一つわからないままです。

私はといえばその後一度も『彼』を見ることなく現在に至ります。
しかし『彼』のことも杉田君のことも一生忘れることはないでしょう。


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Part211
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