[冬山登山]
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何より気配や存在感が明らかに人ではありませんでした。明らかに周囲の世界や雰囲気から浮いているのです。
「それ」が動きもせずにじっとこちらを見上げてたたずんでいるのです。不思議なことに私は「それ」から緑の視線を感じていました。
説明が難しいのですが、緑色の視線としか形容できないものです。
Bは「ダメだろあれ?もうあかんだろ?」と何やら錯乱しているようで、ほとんど泣いていました。
Bの恐ろしさが伝染したのか私もAも泣いてしまい、泣き顔で「諦めんなよ!」やら「逃げるぞ!」などとお互いを叱咤しました。
幸いそれと私達の間にはまだ距離があったので、私達は大急ぎで中腹の山小屋まで急ぐことにしました。
山小屋には常に人がいるはずですし、何より「それ」のそばを通って下山するのは恐ろしいことのように感じたからです。
3人で30分ほどハイペースで登っていたのですが、「それ」からは一向に距離が開きません。
ぴったり50メートルほどを保ちながら、こちらを追い詰めるように悠然と追いかけてくるのです。
今にして思えばそれは歩いていませんでした。私が振り向くたびに、必ずそれは両足をそろえて直立していたからです。
それは追っていたのではなく、背後50メートルに「あった」と表現する方が正しいかもしれません。
私達は次第に精神的に追い詰められてゆきました。

そこからしばらく行ったところでAは「こちらに近道がある!」と普段の観光用のぐるりと回った登山道を離れ、少し細い脇道に入っていきました。
が、思えばこれが間違いでした。
細い脇道は夏の間は管理用として使われているのかもしれませんが冬の山では雪が降り積もり、細い道は非常に見難かったのです。
私達はいつのまにか、道をはずれてしまったようでした。
また最悪なことにあれほど晴れていた天気が2時を回った頃から急転し、今では深深と降る雪になっていました。
時間もいつのまにか午後4時を回っており私達はかれこれ3時間以上を「それ」から逃げ続けていました。
冬の山の夜は早いです。
既に日も落ちつつあり、気のせいか雪も激しさを増しているような気がします。
道を外れた迷子の私達はいつの間にか30度を越える急斜面を横に横に逃げていました。
もうこの頃には山小屋へ行こう、だとか道を探そうなどという考えは無く、ただひたすらに後ろから逃げるという本能のみで動いていたように思います。
しかし無理な行軍や、精神的なストレスは私達の体を着実に蝕んでいました。
ついに真ん中を歩いていたBが足をもつれさせるようにして倒れたのです。
私もAも急いで駆け寄りました。
Bは「ダメ俺ダメ。もうダメだ。歩けないわ。先に行ってくれよ、追いつくからさ」とうわ言のように呟いています。
恐らく「それ」の気配をBは前日からずっと気にしていたのでしょう。Bの疲労は尋常ではないかのように見えました。
更に誤ったペース配分の行軍が脱水症状も引き起こしているように見えました。
現実的にここからBが歩くのは無理です。
私とAは途方にくれました。
私はこの時、もしかしたらここで休憩しても「それ」は50メートルから動かないのではないかと淡い期待を描いていました。
私自身もそろそろ体力の限界だったのです。

ところがその淡い期待は簡単に裏切られてしまいました。

「それ」は、はじめて一歩を踏み出したのです。

非常にのろい歩みでしたが、それは私達を絶望させるのに十分でした。
一番体力の残っていそうなAも遂にへたり込んでしまいました。
「それ」は一歩一歩こちらに歩んできます。
もはやそれとの距離は50メートルではありませんでした。
私は絶望に包まれて、こんなところで死ぬのかな。凍死扱いになるのかな。それとも死体も見つからないのかな。などと考えていました。
すると突然、それまでぶつぶつ呟いていたAが立ち上がり
「ちくしょう、やってやる。ぶっ殺してやる。なめやがって。化けもんが。ちくしょう!」などとキレたと思うと、

「喝ーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!」

とお爺さんに言われたように大声で気合を飛ばしました。
ところがその気合に「それ」は全く反応しませんでした。
しかしその気合が利いたのか、大声がきっかけになったのか「それ」の上方にある深雪が雪崩を起こしたのです。
それは数十トンの雪の流れに飲み込まれ「う、うわあぁあああぁぁぁぁぁ」という声を上げ雪崩に飲み込まれて下に流されていってしまいました。

後に残った私達は呆然として口をあけていました。
その後は雪洞を掘り、一晩を明かして翌日に下山できました。


これは未だに私のトラウマです。
未だに何が起きたのかさっぱりわからないので、どなたか「それ」についてご存知の方はいらっしゃらないでしょうか?


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Part204
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