[笑い女]
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俺が何よりもまず思ったのは、大村は変な妄想にとりつかれてるってこと。
笑い女は幽霊なんかではないし、ただのちょっと変わった女でしかない。
その証拠に、あの日以降も俺は笑い女がスーパーで買い物をしてるとこを何度も見てる。実在する人間だ。
笑い声が独特で気味が悪いから耳に残ったっていうのと、大村なりの罪悪感みたいなものが、妄想の原因だと思った。
大体、スーパーに出る幽霊っていうのも、何だか間抜けだと思う。
そう言って聞かせても、大村はまるでこっちの言うことを聞こうとしない。
「呪い」とか「幽霊」とか繰り返すばっかり。
俺は段々イライラしてきて、「そんなに言うなら、一緒にスーパーに行こう」って切り出した。
大村の言ってることの馬鹿馬鹿しさにも腹が立っていたし、相手が現に実在してるただの女だって認識すれば、
変な妄想もなくなるんじゃないかと思ったから。
勿論、大村は猛烈に嫌がったけれど、俺は大村を無理矢理引き摺るようにして、
レストランから出て、電車に乗って、例のスーパーに向かった。
電車の中でも大村はブツブツ呟いて、びびってた。

やっとスーパーの前まで着いたところで、大村がやっぱり嫌だって言い出した。絶対に中には入りたくないって。
仕方ないから、店の前の駐輪場から店内を覗こうって俺が提案した。
それでも大村は帰るって言い出してたけど、俺は相手の肩をがっちり押さえて、逃げ出せないようにした。
ちょっとだけ弱者をいたぶるような気持ちもあったと思う。
けれど、ガラス越しに店内を眺め渡しても、笑い女はいなかった。
いつも笑い女と出くわす時間は大抵このくらいだから、きっといるだろうと思ったのが失敗だったのかもしれない。
マズイなと思った。ここで笑い女を見ておかないと、大村は余計に「あいつは幽霊だ」って思い込むかもしれないから。
それでももう少し待ってれば、いつものように買い物に現れるかもしれないって、俺は粘った。

そのうちに、大村が両耳を塞いでガタガタ震えだした。
「聞こえるよう、聞こえるよう」って子供が泣きじゃくってるみたいな調子で、鼻水を垂らして言う。
「やっぱ呪われたんだよう」って。
でも俺は、それが笑い女の呪いなんかで聞こえてるわけじゃないってハッキリ気づいてた。

なぜなら、「いひゃっいひゃっいひゃっ」ていう笑い声は、大村だけじゃなくて、俺にも聞こえてたから。

首だけを横に向けて振り返ると、俺に肩を掴まれた大村の真後ろに、笑い女が立ってた。
「いひゃっいひゃっいひゃっ」て笑いながら、涎を垂らしてる。
俺は大村が絶対に後ろを振り向かないように、肩を押さえる手に力を込めた。
ただでさえ笑い女を怖がってる大村が、こんな至近距離で当の本人と向かい合うのは、絶対にまずい。
少しすると(凄まじく長い時間のように感じたけど)、笑い女はスーパーとは逆の方向に笑いながら去っていった。

立ち去り際に、笑い女の顔が俺の方を向いた。
俺はそれまで笑い女を遠巻きに見たことは会っても、あんな至近距離で真正面から見るのは初めてだった。
口はにんまり開かれてるのに、ボサボサの髪の中でこっちを向いてる目は、全然笑ってない。
でも、怖いと思ったのはそんなことじゃなくて、笑い女の口そのものだった。

涎が唇の端で泡になってる、笑い女の口には、歯がなかった。

それから後、俺は随分自分勝手なことをしたと思う。
何も知らずにまだ震えてる大村を、無理矢理バスに乗せて一人で帰らせた。
もう、その時の俺にとって、大村の妄想とかはどうでも良かった。
ただただ自分が見たものの気味悪さが恐ろしくて、早く自分の部屋に帰りたいっていう一心だった。

その日以来、大村は会社に出て来なくなった。
最初はみんな(俺以外みんな)、「あいつ、この年末にサボりかよ」とか言ってたけど、
あまりにも無断欠勤が続いたから、いくらなんでもこれはおかしいって話になった。
そのうちに、大村が死んだってことがわかったのが、先週の金曜。


今となっては大村も気づいていたのかはわからないけど、俺にはハッキリわかってることが一つだけある。
笑い女の「いひゃっいひゃっいひゃっ」てのは、笑い声なんかじゃない。

よく聞くと、
「居た、居た、居た」
って言ってる。


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