[怪物「結」下]

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「くだんなら、予言をするんだろ。戦争とか、疫病とかを」キャップ女が両手を広
げてみせる。
「言ってたじゃないか」
「かわいそうに、が予言か?。いったい誰がかわいそうだっていうんだ」
その言葉に、言った本人も含め、全員が緊張するのが分かった。
ざわざわと葉が揺れる。
そうだ。かわいそうなのは、誰だ?
脳裏に、何度も夢で見た光景が圧縮されて早回しのように再生される。この場所に
来た理由を忘れるところだった。
とっさに空を見る。
月は、雲に隠れることもなく輝いている。
月の位置。そして一番背の高いビルの位置。
近い。と思う。
「月はどっちからどっちへ動く?」と眼鏡の男が周囲に投げ掛ける。
「太陽と同じだろ。あっちからこっちだ」とキャップ女が指でアーチを作る。「あ、
でも1時間に何度動くんだっけ? 忘れたな。あんた、現役だろ?」
いきなり振られて動揺したが、「たぶん、15度」と答える。
「1時間、ちょい過ぎくらいか、今」そう言いながら眼鏡の男が指で輪ッかを作っ
 て月を覗き込む。
「15度って、どんくらいだ」
輪ッかを目に当てたまま呟くが、誰も返事をしなかった。
「でもたぶん、近いわね」とおばさんが真剣な表情で言う。
「手分けして、虱潰しに探すか」眼鏡の男の提案に、賛同の声は上がらなかった。
やがて「こんな時間に一般人を叩き起こして回ったら、警察呼ばれるな」と自己解
決したように溜息をつく。
暫し気分的にも空間的にも停滞の時間が訪れた。
キャップ女とおばさんが、小声でなにかを話し合っている。眼鏡の男はぶつぶつと
独りごとを言っていたが、木の幹に隠れるように寄り添っていた青い眼の少女に向
かって「おまえもなんか言えよ」と投げ掛けた。

少女は、身構えたようにじっとしたまま瞼をぱちぱちとしている。
私はさっきのフラッシュバックに引っ掛かるものを感じてもう一度夢の光景を思い
出そうとする。それは些細なことのようで、また同時にとても重要な意味を持って
いるような気がする。
どこだ? 揺らめく記憶の海に顔を漬ける。
刃物の感触? 違う。ロックが外れる音。チェーンを外すための背伸び。叩かれる
ドア。違う。まだ、その前だ。足音。その足音を、母親のものだと知っている。足
音は、下から登ってくる……
ハッと顔を上げた。
確かに、足音は下の方から聞こえて来た。何故それをもっと深く考えなかったのか。
2階以上だ。2階以上の場所に玄関があるということは、集合住宅。マンションか、
アパートか。
私は夜の中へ駆け出した。他の人たちの驚いた顔を背中に残して。
考えろ。フラットな場所の足音ではない。登ってくる音だった。マンションなら、
部屋の中から通路の端の階段を登ってくる足音が聞こえるだろうか。端部屋なら、
可能性はある。でも、例えば、階段が部屋の玄関のすぐ前に配置されているような
アパートなら、もっと……
私の視線の先に、それは現れた。
比較的古い家が並んでいる一角に、木造の小さな2階建てのアパートがひっそりと
佇んでいる。
1階に3部屋、2階にも3部屋。玄関側が道に面している。ささやかな手すりの向
こうにドアが6つ、平面に並んで見える。1階から2階へ上がる階段は、1階の
右端のドアの前から2階の左端のドアの前へ伸びている。赤い錆が浮いた安っぽい
鉄製の階段だ。登れば、カン、カン、とさぞ騒々しい音を立てることだろう。
立ち尽くす私に、ようやく他の人たちが追いついて来た。
「なんなのよ」「待て、そうか、足音か」「このアパートがそうなのか」「……」
アパートに敷地に入り込み、階段のそばについた黄色い電灯の明かりを頼りに、
駐輪場のそばの郵便受けを覗き込む。

続く