[怪物 「結」下]
前頁
上下に3つずつ並んだ銀色の箱には、101から203の数字が殴り書きされてい
る。名前は書かれていない。そして101と、201、そして203の箱にはチラ
シの類が溢れんばかりに詰め込まれている。綺麗に片付けられた番号の部屋には、
現在まともに住んでいる入居者がいるということだろう。
2階で綺麗なのは202だけだ。
道理で、母親の足音だと分かったはずだ。階段を登ってくるものは、他にいないの
だろう。
同じようにその意味を理解したらしい人たちの息を呑む気配が伝わって来る。
階段を見上げながらそちらに歩こうとすると、いきなり猫の鳴き声が響いた。
見ると、青い眼の少女の前から1匹の汚らしい猫が逃げて行くところだった。敷地
の隅に設置されたゴミ置き場らしきスペースだ。黒いビニール袋やダンボールが重
ねられている。
青い眼の少女は猫の去ったゴミ置き場から目を逸らさずにじっとしていた。
その異様な気配に気づいた私もそちらに足を向ける。
じっとりと汗が滲み始める。さっき走ったせいばかりではない。暗い予感に空間が
グニャグニャと歪む。私の鼻は微かな臭気を感知していた。肉の匂い。腐っていく
匂い。
ゴミ置き場が近くなったり、遠ざかったりする。雑草が足に絡まって、前に進まな
い。どこからともなく荒い息遣い。そしてその中に混じって、かわいそうに、かわ
いそうに、という声が聞こえる。
幻聴だ。雑草も丈が短い。ゴミ置き場も動いたりなんかしない。
理性が、障害をひとつ、ひとつと追い払っていく。
けれど臭気だけは依然としてあった。
ひときわ中身の詰まった黒いゴミ袋が、スペースの真ん中に捨てられている。
2重、いや3重にでもされているのか、やけにごわごわしている。
誰も息を殺してそれを見つめている。肩が触れないギリギリの距離で、皆が並んで
いる。
胸に杭が断続的に打ち込まれているような感じ。手をそこに当てる。見たくない。
でも目を逸らせない。
眼鏡の男が、腰の引けたままゴミ袋の上部に出来た破れ目に指をかける。さっきの
猫の仕業だろうか。
ガサガサという音とともに、中身が月の光の下に現れる。
土気色の肌。
目を閉じたまま、口を半開きにした幼い女の子の顔が、ゴミ袋の破れ目から覗いて
いる。生きている人間の顔ではなかった。
それを見た瞬間、全身の血が沸騰した。
足が土を蹴り、無意識に階段の方へ駆け出す。
けれど次の瞬間、前に回りこんだ何者かの手に肩を押さえられる。遠慮のない力だ
った。目の前に顔が現れる。目深に被ったキャップの下の険しい表情。
「落ち着け」
その言葉が私に投げ掛けられるすぐ横を、眼鏡の男がなにか喚きながら駆け抜けよ
うとする。
キャップ女は間髪要れずに右足を引っ掛け、眼鏡の男はその場に転倒した。
「なにするのよ」とおばさんが叫んで、私の背中を押す。その力は私の前進しよう
とする力と併わさり、じりじりとキャップ女は後退を始める。
「落ち着け。なにをする気だ」
なにをする気? 決まってる。報復をしなければいけない。同じ目に遭わせてやる。
子どもをゴミ同然に捨てながら、202号室のドアの向こうにのうのうと生きてい
るあの母親を。
「どきなさいよ」とおばさんが上ずった声でキャップ女を怒鳴りつける。
すぐ横では眼鏡の男が立ちあがろうとする。
「クソッ」と呻きながら、キャップ女が右足を跳ね上げ、男の顔面を蹴った。ジャ
ストミートはしなかったが、眼鏡が弾けるように宙に飛んで草むらに消えた。
「うわっ」と、眼鏡の男は両手で顔を押さえる。
足を上げたせいでバランスを崩したキャップ女が体勢を立て直す前に、私は掴まれ
た肩を振りほどきながら一気に突進した。