[帰宅]

漫画家の仕事場と言ったら、どんな場所を想像するだろうか。
有名作家のドキュメンタリー、或いはドラマで見るような、
机と資料棚がずらりと並んだ立派な部屋だろうか?
実はそこそこ売れている人でも、普通に自宅でやっている事がままある。

俺がレギュラーで手伝っている先生の一人は未婚の女性で、東京郊外の実家住まいだ。
忙しい時は一ヶ月間以上アシスタント達が詰めている事もあるが、
仕事の量にムラがあり、人手がいらない時は何ヶ月も彼女一人でやっている事もある。
そんな訳で、仕事場を借りて毎月家賃を払うよりも、自宅でやる方が効率がいい。
月刊や隔月刊の掲載誌が多い女性向けの漫画の作家の場合、珍しい話ではない様だ。

先生(仮に長野さんと呼ぶ)の私室は、階段を上がり廊下を進んだ一番奥の部屋だ。
仕事中はそこが作業場で、階段を挟んで廊下の反対側の外れの和室を寝部屋にしている。

ある年の7月の今時分、俺は半月程長野さんの家にいた。
アシスタントは入れ替わりでヘルプが来ていたが、
常駐していたのは俺と戸塚さんと言うベテランの女性だった。
部屋に入ってすぐ右手にテーブルがあり、ドアの隣が戸塚さん、
その隣の窓際が俺、ヘルプの人がいる時は戸塚さんの向かいが定位置。
長野さんは部屋の奥、俺が背にしてる窓がある壁に向かって机があり、そこにいる。
仕事は〆切から大幅に押しており、事前に手配したヘルプは手が尽きていた。
レギュラー2人だけが、ずるずると延びる日程の中必死で作業をしていた。
月半ば。
俺は自分の同人誌の〆切を気にしてカレンダーを見た。
大行列の出来るエロ漫画とかを描いている訳ではないから威張れないが、
そこそこ俺を目当てに来てくれる人もいるので、全く何もないのは避けたい。
だが、普通の印刷所の〆切はそろそろだ。こりゃあ間に合わない。
正午を過ぎて、カーテンの隙間からは太陽が刺す様に照りつけている。
南西の外れにある長野さんの部屋は、夏の午後の暑さが本当に厳しい。
ドアも窓もカーテンさえきっちり閉めても、エアコンの効きが悪い。
色々な意味でげんなりしていると、階下で玄関の扉が開く音がした。

階段の正面が吹き抜けなので、玄関の閉開音は2階にもよく聞こえる。
平日の昼間だ、外出していた長野さんの母親が帰宅したのだろう。
足音がして、それは階段を昇り始めた。
めずらしいな、と思った。
仕事中は勿論、長野さんの家族は彼女の部屋には滅多に来ないらしい。
用事があっても電話で済ませる位だ。
だがまあ、物品の受け渡しを伴う様な用事であれば、来た方が早い。
俺はさして気にも留めず、原稿の方へ視線を戻した。

足音はゆっくりと、しかし比較的軽やかに階段を上がりきり、
右へ折れて真直ぐとこちらへ向かって来る。
そして、扉の前で止まる。明らかに家庭内の誰かの気配がした。
立て付けのよくない扉は軽く軋んで、それからすうっと半分くらい開く。
視界の隅でそれを確かめた俺は、何の気なしに訪問者の姿を見た。

いや、見られなかった。

誰もいない。呆気に取られる俺に気付いた戸塚さんが、俺の名前を呼んだ。
「…今、誰か来ましたよね?」
俺が訊ねると、戸塚さんは不思議そうな顔をした。
長野さんも首を振る。
玄関の開く音、閉じる音、靴を揃えて、階段を昇り、廊下を進む足音。
2人はそんな音は聞かなかったと言う。

しかし現実にドアは開いている。
なんの違和感もない、そこにいるのが自然な人間の、濃密な気配。あれは?
俺があたふたしながら彼女達に説明していると、当の母親が長野さんを呼んだ。

数分後、長野さんが昼食を手に上がって来た。
娘が外出していたかと問うと、母親は朝からずっと家にいて、
朝洗濯物を干して以来庭にも出ていないと言ったらしい。
勿論、誰も家に入って来た者はいない。
不審がる母に、長野さんはたった今俺が見聞きした事を説明した。
すると、得心が行ったようにこう応えたと言う。
「ああ…それ、おじいちゃんだわ。」

カレンダーを見直す。7月13日。お盆の入りの日だった。
俺の住む辺りでは8月に盆の行事をするので、まるで失念していた。
長野さんの母方の実家がある地方では、7月が盆。
例年は帰郷し、墓地でお迎えをするのが常なのだが、
この時は予想外に仕事が押して、彼女と母親は東京に残っていたのだ。
ただ、彼女や家族の誰かしらがお盆に間に合わないのはけして珍しい事でなく、
そのような年にも彼女の祖父は家を訪れていたのか、そんな疑問が残った。
長野さんは、
「うーん、毎年来てたのに、誰も気が付いてなかったのかな?
今年はたまたま仕事が長引いて、ナオヤ君が居たから判った、なんて事……?」
と笑った。

家族の誰も気付かなくて、赤の他人の俺が気付いても…。
さぞやお祖父さんも驚いた事だろう。
今でも夏場に仕事をしていると、この話は語り草だ。
あれ以来、長野さんはお盆前には仕事を切り上げるようにしているけれど。


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Part194
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