[足音]
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それから暫くして、俺はレギュラーで手伝っていた別の先生の所が忙しくなって、
そのアパートに足を踏み入れる事はなくなった。
先生同士が友人だったから、そちらの話は時々聞いてはいたのだが。

涼風が立ち、いつも通りアシ先で仕事をしていたら、千葉さんがひょっこり顔を出した。
取材土産をこちらの先生に持って来たのだ。
駅弁だったので早速一同でありがたくいただいている間、
千葉さんは今準備中の連載が始まる前に引っ越す事になったと話してくれた。
俺はふと思い出して、
「じゃあもう坂元さんはオバケの足に悩まされなくていい訳ですね。」と言った。
だが千葉さんは恐い顔をして、それだよ、と俺を指差した。
「実は先月、僕も足音を聞いたんだ…。」
え?マジで?

前の連載が無事終了し、休む間もなく次の連載の準備をしていた千葉さんは、
その日もネーム(漫画の設計図みたいな物、絵コンテ)をやっていたらしい。
けれど昼夜の別なく机に向かい、彼はすっかり疲れ切っていた。
仕事中のいつもの癖で、少しだけ眠ろうと机の下に潜る。
どの位時間が経っただろうか。
エアコンの効きを良くする為に閉め切ったカーテンの向こうで、足音がする。
4畳半をひたひたと歩く音。

ああ、坂元君達が言っている足音はこれか……。

千葉さんはぼんやりと思いながらも、そのまま眠ってしまった。

目が覚めると夕方で、千葉さんは随分寝ちゃったな…と思いながら立ち上がり、
作り置きの麦茶を取りに冷蔵庫へ向かおうとした。
ところが。
カーテンを開けると、台所の下の開きと、押し入れが開きっ放しになっていた。
窓には間仕切りと同じ季節感のないカーテンを引いている為に、室内は薄暗い。
だが、押し入れの下段にいれた箪笥は引き出しが全部開けられており、
上段からは布団袋がずり落ちていて、刃物か何かで切り裂かれて中身がはみ出している。
見れば、玄関の扉も半開きになっている。勿論普段は在宅時にも鍵を掛けているのに。
そしてその向こうに、隣人と大家の姿があった。

よくよく聞いてみれば、千葉さんが眠っている間に空き巣が入ったのだった。
このアパートは昼間働いている人が多く、鍵もボロい為に入り放題だったらしい。
千葉さんは本来ない筈の部屋、しかも机の下の陰の部分で眠っていた為、
犯人とはち合わせせずに済んだのではないかと言う話だった。
もし足音が聞こえた時に、その正体を確かめに行っていたら…。
考えるだに恐ろしい。
これですっかりボロ屋に懲りた千葉さんは、
忙しさにかまけて中断していた新居探しを再開したと言う訳だ。
今では立派なマンションの一室におさまっている。

結局千葉さんが聞いたのは生きた人間の足音だったのだけれど、
ならば坂元さん、小津さん、俺がそれぞれ見聞きしたものは何だったんだろう?
2人がそれに遭遇したのは一度や二度ではないし、俺はそれを知らなかった。
千葉さんが引っ越した後もそのボロアパートはあるみたいだけど、
もしそんな場所に住む事になったら、あなたは足音の正体を確かめますか?


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Part194
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