[三人目の大人]
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「という怪談があってな」
と師匠は言った。
大学に入ったばかりの春のことだった。
彼は大学のサークルの先輩だったが、サークル活動とはまったく無関係に重度のオ
カルトマニアで、僕はその後ろをヨチヨチとついていく弟子というか子どものよう
な存在だった。
「ここはどこですか」
一応聞いてみたが、答えは薄々わかっていた。
僕たちは人気のない団地の、打ち捨てられて廃墟同然になっているアパートの一室
に忍び込んでいた。
僕たちがしゃがみ込む畳には土足の跡や、空き缶、何かが焦げた跡などがある。少
なくとも人が住まなくなって5年以上は経っている様子だった。

師匠は言う。
「その三人目の大人を描いた子どもが、家族と住んでいた部屋だ」
実話なんですか。
そう聞くと、頷きながら「もともと巷の怪談として広まってるわけじゃなくて、個
人的なツテで収集した話だ」と言って、部屋を照らしていた懐中電灯を消した。
深夜の1時過ぎ。辺りは暗闇に覆われる。
どうして明かりを消すんだろうと思いながら、じわじわとした恐怖心が鎌首をもた
げてくる。
「怪談の意味はわかったよな」
と師匠らしき声が暗がりから聞こえる。
なんとなく、わかる。
母親が最後に悲鳴を上げるのは、その三人目の大人が、本来そこに描かれていては
おかしい人物だったからだ。
まったく心当たりのない人物ではない。そうならば「誰かしら」と首を捻るくらい
で、そこまで過剰な反応は起こさないだろう。
知っているのに、そこにいてはいけない人物。
それも死んでいなくなった家族などであれば、それを絵の中に描いた男の子の感性
に涙ぐみこそすれ、恐怖のあまり悲鳴を上げたりはしないだろう。
知ってはいるが、家族であったこともなく、しかもテーブルを囲んでいてはいけな
い人物。
暗い部屋に微かな月の光が滲むように射し込み、柱や壁や目の前に座っているはず
の師匠の輪郭をおぼろげに映し出している。
かつてテーブルが置かれていたであろう6畳の居間に僕は身を硬くして座っている。
闇の中に、青白い無表情の顔が浮かび上がりそうな気がして、どうしようもない寒
気に襲われる。

師匠が、張り詰めた空気を震わせるように囁く。
「実は、気づいていないかも知れないが、この話を聞いた人間にもある影響が自然
 と及ぼされる」
ふーっ、という息を吐き出す音。
僕も息を吸って、吐く。
「話を聞いただけなのに、おまえは何故かもうその顔を想像している」
心臓が脈打ち、耳を塞ぎたくなる衝動に駆られる。
「大人と、聞いただけなのに、何故かおまえはその顔を、女ではなく、口を閉じた
 無表情の男の顔として想像してしまっている」
僕は耳を塞いだ。そして目を瞑る。頭が勝手に、虚空に浮かぶ顔を想像している。
どこからともなく声が聞こえてくる。

それがここにいてはいけない三人目の顔だよ


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Part194
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