[怪物 「起」承転結]
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いや、始まりは昨日ではない。怖い夢を見たという漠然とした記憶は、かなり前か
ら始まっていた。この夏が始まるころ、いやあるいはもっと前から、緩やかにそれ
は私の日常を侵食し、そしてこの街の中に染み込んでいたのかも知れない。誰にも
その意味を気づかれないままに……
3本目の煙草を箱から出した時だった。
突然キーンという耳鳴りに襲われた。まるで、周囲の高度が劇的に変わったかのよ
うだった。
(まずい。なにか起こる)
そう直感して、とっさに姿勢を低くする。全身を恐怖が貫いた。
けれどいつまで待っても何も起こらなかった。
恐る恐る身体を起こして、周囲を見回す。
地面にも、校舎の壁にも異変はない。空を見ても、さっきとなにも変わらない。入
道雲が高くそびえているばかりだ。
胸はまだドキドキしている。
そういえば耳鳴りがしたあの瞬間、どこか遠くで雷のような音が鳴ったような気が
する。目を閉じて耳を澄ましてみたが、今はもう何も聞こえない。
耳鳴りもいつの間にかおさまっていた。
「なんなんだ」
自分に問いかけて、それから出しかけた煙草を箱に戻す。授業に戻ろうかと考えて、
やっぱりやめることにした。さっきの耳鳴りがなにか反復性のもののような気がし
て、とっさに逃げ場のない教室には戻りたくなかったのだ。次に学校から抜け出し
てみようかと思った。それは素晴らしい思いつきに感じられて、いてもたってもい
られなくなり、学校の敷地から出るために塀をよじ登ることさえ苦にならなかった。
誰にも見つからず抜け出すことに成功した私は、川の方に行ってみるか、それとも
図書館に足を伸ばすか思案した。

真っ昼間に制服だと目立つな、と思いながら歩いていると、遠くからサイレンの音
が聞こえてきた。
救急車の音だ。
そう思った瞬間、駆け出していた。
それはさっき耳鳴りがした瞬間に雷のような音が鳴った方角に向かっているような
気がしたからだ。その時にはどこから聞こえたのか分からなかったのに。
救急車のサイレンにキョロキョロとしている通行人を追い抜き、大通りを通り過ぎ
て、路地裏に入っていく。
10分ほども走っただろうか。
ざわざわとした人の気配が強くなり、角を曲がった時にその光景が飛び込んできた。
商業地から住宅地に少し入ったあたりの、寂れた2階建ての建物が並ぶ一角に救急
車の赤いライトがくるくると回っている。
周囲には割れたガラスが散乱し、何人かの人が頭や腕を押さえて道路に座り込んで
いた。野次馬がその周りをウロウロしている。
地面には血の跡がポツポツと落ちている。けれどそれ以上に私の目を惹くものが地
面に落ちていた。
石だ。
パチンコ玉くらいのものから、子どもの握りこぶし大のものまで大小様々な石が周
囲に散らばっている。
「落ちてきたって」「雹が?」「石だろ、石」「雹じゃないの」「空から落ちてき
たんだって」
そんな言葉が辺りを飛び交っている。
雹という単語を聞いて、思わず手に取ってみたがやはりそれは石だった。どこにで
もあるただの石だ。公園や校庭に転がっていそうな。
空を見上げたが、電線が一つ横切っているだけであとは飛行機雲一つない。

その路地の100メートルくらい先まで、石が乱雑に道路に飛散している。ガラス
も建物の窓が石で割られたものらしい。よく見ると家の瓦屋根が割れているのも目
に付いた。
本当に石がこの晴れた空から降ったのか? 天気雨のように?
そんなことがあるのだろうか。
隕石という言葉が頭に浮かんだが、どう考えてもそんな大げさなものではない。
「どいてどいて」
道路につっ立っていると消防隊員に邪険にどかされた。救急車が出るらしい。
私は少し考えてから、その石を一つだけスカートのポケットに入れた。そして向こ
うからパトカーがやって来ているのに気づき、慌ててその場を離れる。
警察はまずい。平日の真っ昼間に高校の制服を着たままだったからだ。彼らは例外
なく皆お節介で、そして中高生のあらゆる非行が学校をサボることから始まると固
く信じている。
後ろ髪を引かれる思いでその路地を後にした私は学校に戻ろうかとも考えたが、5
秒で却下する。
しばらく路地裏を目的もなくうろうろしていたが、鋏を買うつもりだったことを思
い出し、近くの文房具屋に足を向けた。
そう言えばこの辺りは最近来ていないなと思いながら、ささやかな商店街を歩く。
その間も頭はさっきの石の雨のことを考えていた。
たくさんの目撃者もいるようだ。なによりあの割れたガラスや瓦屋根、そして怪我
をした人間がその証拠だ。石は降った。それは間違いないだろう。だがどこからか
なのか。それが問題だった。近くにもっと高いビルでもあればその上の方の階や屋
上からばら撒かれた可能性もあるが、区画上の規制でもあるのかそんな高い建物は
見当たらなかった。
飛行機?

続く