[赤と青の炎]
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次にマサさんが、俺に「気」の操作法を学ばせる為にやらせたことは「三戦」よりも俺を驚かせた。
それは「立木打ち」だった。
「立木打ち」とは、薩摩の剣術として有名な示現流の稽古法である。
奇声を上げながら素早く、息の続く限り棒で柱を打ちつける。
俺は、丹田に力を込めながらゆっくりと行う素振りで、木刀(棒)を振る動作と丹田の操作を一致させる感覚を身に付けてから「立ち木打ち」の稽古に入った。
この「立ち木打ち」の稽古は「陽」の気を引き出して、人間の身体能力やその他の能力の「リミッター」を意識的に外すのに最適の訓練なのだ。
先に、「陽」の気が頭に入ると人は一時的な発狂状態に陥ると述べたが、逆に発狂状態の人間は激しく「陽」の気を発しているそうだ。
人間は生命力の源である「陽」の気を浪費しないよう、必要以上に「陰」の気を発散されやすい「陽」の気に変換しないように本能的にリミッターをかけているそうだ。
それが、「発狂状態」や激しい感情に囚われた状態になると取り払われて、強い「陽」の気が発生する。
「陽」の気には肉体を賦活化して身体能力を高めると共に、悪霊や魑魅魍魎を弾き飛ばす効果がある。
朝鮮の「泣き女」の風習をご存知の方も多いと思うが、あれは「狂ったように泣く」ことで「陽」の気を発生させ、悪霊から身を守る意味があったのだ。
示現流の「立木打ち」にも同様の効果がある。
有らん限りの奇声を発しながら一心不乱に立ち木を打ち続けていると、ある時点から「陽」の気は目一杯に発生しているのに頭の中は冷静な状態がやってくる。
冷静でありながらリミッターが外れた状態。この状態になるまで始めは時間が掛る。
しかし、繰り返しているうちに時間は短縮し、ある時から一瞬で「リミッター」が外せるようになった。
これが出来るようになると、マサさんとの「組手」で臆したり躊躇することなく、一瞬で全力の攻撃が出来るようになった。
「二の太刀要らず」の全力の斬撃を旨とする示現流では、この「初動」の速さは死命を決する重要な要素であったのではないだろうか。
まあ、俺はあくまで「気を貯めて操作する為」に武道・武術の形式を利用しただけなので実際の所は判らないが・・・
俺もマサさんも武術家では無いし、かなり独特な考えと偏見に満ちているので間違いも多いのだろう。
だが、上記のような考えに従った修行は確実に効果を上げて行った。
「リミッター」を外して自在に「陽」の気を生み出せるようになった俺は、気を体の中で前後や上下に循環させたり、一点に集中させる訓練を重ねた。
自由に気を動かせるようになると、次に様々な「イメージ」に気を乗せる訓練を行った。
始めは体を気で覆うイメージ。
これが出来るようになると魍魎に体の中に潜り込まれたり、齧られることはなくなった。
次に背骨の中の「気道」から気を染み出させて、部屋全体に満たすイメージ。
これによって、部屋から魍魎を追い出すことが出来るようになった。
最後に、部屋の中に体ごと拡散して、空気のように同化するイメージ。
これは非常に難しく、俺がモノに出来たのは修行を再開し、キムさんと契約してから大分経ってからのことだった。
三戦により丹田に集めた「陰」の気を「陽」の気に変換して体に循環させ、丹田に戻して圧縮することで得られる「使える気」の量は、例えるなら1日にコップ1杯程度である。
その「使える気」をバスタブ一杯に貯めて、溢れ出てきた分。その余剰分の「気」が魍魎を払ったり、或いは呪術に使われる気である。
バスタブは常に「使える気」で満タンにしておかなければならない。
しかし、毎日コップ一杯づつ気を注がないと漏れ出したり劣化したりして失われる分は、使わなくても1日にコップ3杯分くらいになる。
1日休めば3日分後退してしまうのだ。
娑婆に戻って羽目を外した俺は修行を止め、気を浪費し続けた。
その結果、俺は引き寄せられた魍魎に集られ、眠れない夜に怯える羽目になったのだった。