[騒音]
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しかし珍しく仕事が忙しくなったこともあり、私は相変わらずの
異音と良心の呵責に耳を塞ぎながら、その部屋に居続けていました。
そんなある日の午後、いつもとは違う騒音に私は表を見ました。
一
台の引っ越し業者のトラックが止まっています。そうです、あの階
下の住人が引っ越すところでした。旦那は相変わらず人の良さそう
な物腰で、業者の人間に指示を出しつつ自分でもダンボールを運ん
だりしています。一方奥さんはと言うと、作業を手伝うでもなく、
たぶん夫婦のものであろう白い軽自動車の脇に佇んでいます。
髪は
洗っていないかのように油っぽく、がっくりと落ちた肩に精神のや
つれが滲み出ているかのような雰囲気が漂っています。
挨拶にいっ
たときと同じような地味なエプロンをつけ、化粧っ気もなくうつろ
な表情をしているようでした。しかし、その胸にはしっかりと赤ん
坊を抱いています。二階からの視点ではよく見えませんでしたが、
赤ん坊は母親の胸に抱かれ、大人しく目を開けたり閉じたりしてい
ます。
生きている!
私は心底ほっとすると同時にあまりに大人しく無表情な赤ん坊を
見て、むしろ問題があったのは赤ん坊の方だったのかも知れないと
思いました。
自閉症の類、そして育児ノイローゼからヒステリー症
状へ。不気味に思っていた奥さんに対し、憐れみを禁じ得ない気持
ちにもなってきました。
やがて作業も終わりまずトラックが出発し
ました。
続いて旦那が奥さんに車に乗るように促し、トラックの後を追って出発するのを私は窓から見送りました。
しかし…
その時見てしまったのです。奥さんが車に乗り込むとき赤ん坊の
こめかみの辺りをドアの角にぶつけてしまったことを。それを見て
いたはずの旦那が何の心配もしなかったことを。午後の日差しに赤
ん坊の顔や目がやけに反射していたことを。赤ん坊で動いているの
は瞼だけだったことを。その瞼も上下するのは時折奥さんがあやす
ように揺する時だけだったことを。
あの赤ん坊は明らかに 人 形 でした。
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