[階段の人]
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最初、それは夕の五時を過ぎた頃に始まります。階段を上ってくる音がまずして、降りて行くのが聞こえます。
子どもたちは、私の部屋の前を横切り、廊下のトイレに行くためにドアを出入りします。
「黒猫のおじさん、今裏から上がってきた?」
 子どもたちは、必ず首を横に振りました。わたしは、どうしてもトイレに行きたい時は、情けない話ですが男の子がやってきた時についていくだけになりました。
 それでも、夜の九時頃までは良いのです。外にいる「ひと」は、相変わらず元気に上り降りしていますが、生徒や先生が大勢いるから、まだ塾の中は騒然としていて、怖がる余地がないほど活気があります。
 しかし、十時近くになって人がいなくなってくると堪りませんでした。もしも教え子に受験生が六人もいなければ、集団授業のクラスなど持っていなければ、さっさと辞めてしまっていたかもしれません。

 その足音は、いつも一定の歩調を保っていました。遅すぎもせず、早すぎもせず、機械的な調子で上がってきては、くるりとターンをして降りていきます。
 しばらくすると再び上がってきて、運動部のメニューのようです。そのように、上がり降りの行為にはまるで意味がないようでした。それがわたしには逆に怖かったのですが。
 わたしは、それが一体何であるかを、よく分かりませんでした。
 もしかしたら人間かもしれないし、人間ではないかもしれません。
 とにかく、どちらにしても子どもに良くないものであったら困ります。わたしは一度、社員の先生に「変な人が上がってきているかもしれない」と相談をしました。
すると「裏は出入りが自由になってきているから、もしも何かあったら、毅然と追い返して下さい」と平気で凄い言葉を返され、わたしは今にも泣きそうな顔で頷きました。

 階段の「ひと」は相変わらず足腰を鍛え続けていましたが、特に悪さもしない上に、特に対処も出来ないので、わたしも次第に足音に慣れてどうでもよくなってきました。
 しかし十二月の終わり、冬期講習のまっただ中の夜、とうとうどうでもよくないことが起こりました。
 その日も、最後にわたしと社員の先生が一人塾の中に残って黙々と仕事をしていました。テキストのコピーを切り貼りしていると、例の足音が上がってきました。
 わたしは、それが階段の上で止まったままであることに気づいて、視線を上げました。銀のノブがついた鉄の扉の向こうで立ち止まっている誰かに、わたしは動けなくなりました。
 わたしは、後ろの端にいる社員の先生の方へと振り返りました。すると、ドアをノックする音が目の前から聞こえ出しました。
 とんとんとん。
 一定のリズムで、三度ドアはノックされました。わたしは、ブースの椅子から立ち上がって、後ずさりしました。

 とんとんとんとん。
 ドアを叩く音がひとつ増えました。わたしは「先生」と叫びました。受付の方から、答えるように、三台の卓上電話のベルが一斉に鳴り出しました。
 ドアが、五つ叩かれました。それから、続けざまにトントントントントントントントン、と止まらなくなりました。
「せんせい!」
 わたしは迷路のような、ついたてに仕切られたブースの間を駆け抜けて、講師室に駆け込みました。
 それは、その中年の男の先生がちょうど電話を高く取り上げて、まるで投げつけるような渾身の力で受話器を叩き置いたところでした。
 ガチャン! と激しい音で切ったと同時、電話は一斉に黙り込みました。
 それから、先生は腰を抜かしたわたしを無理矢理立たせ、腕を掴んで、引きずるように奧の廊下へと向かいました。ノックをする音は、ドドドドドドドドドドド、と大きなものになっていました。

「先生、こういうのは、毅然と追い返すと教えたでしょう」
 その人は、生徒を怒鳴りつけるような大きな声で、「こんにちは!」とドアに向かって挨拶をしました。
「こんにちは!S個別指導塾U駅前校です、生徒さんのご父兄でなく、お子さんの相談以外で御用のない方はお帰り下さい!」
 思い切り良くドアノブを捻り、大きく扉を外に開きました。
 廊下は闇の中に、非常口の緑がぼんやりと光っていました。廊下には誰もいませんでした。


「これで来年も、安泰でしょう」
 先生は、座り込んで耳を塞いでいるわたしに晴れやかに言いました。わたしは、それから二月まで塾に通いましたが、夜の残業はやめさせて貰いました。
 その塾は、まだわたしの通勤途中の駅前にあります。おわりです。


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