[追跡]
前頁

「ここから東へ歩きます」
と言ったものの、二人とも土地勘がなく困ってしまった。近くで周辺の地図を描
いた看板を見つけて、その現在位置からかろうじて方角を割り出す。
ページ内を読み進めると、どうやら廃工場にたどり着くらしい。
顔を上げるが、まだそのシルエットは見えない。川が近いらしく、かすかに湿っ
た風が頬を撫でていく。寒さに上着の襟を直した。

  うしろすがたに会った。

急にこんな一文が出てくる。前後を読んでも、よくわからない。誰かの後ろ姿を
見たということだろうか。
住宅街なのだろうが、寂れていて俺たちの他に人影もない。右手には背の低い雑
草が生い茂る空き地があり、左手には高い塀が続いている。明かりといえば、思い
出したように数十メートル間隔で街灯が立っているだけだ。
その道の向こう側から、誰かの足音が聞こえ始めた。そしてほどなくして、暗闇
の中から中肉中背の男性の背中が現れた。
確かにこちらに向かって歩いて来ているのに、それはどう見ても後ろ姿なのだっ
た。服だけを逆に着ているわけではない。夜にこんなひとけのない場所で、後ろ
向きに歩いている人なんてどう考えてもまともな人間じゃない。
俺は見てみぬ振りをしながら、それをやり過ごそうと道の端に寄って早足で通り
過ぎた。
そして、どんなツラしてるんだとこっそり振り返ってみると、ゾクリと首筋に冷
たいものが走った。
後ろ姿だった。

後ろ姿がさっきと同じ歩調で歩き去っていく。横を通り過ぎた一瞬に、向き直っ
たのだろうか。いや、そんな気配はなかった。
足を止める俺に、彼女がどうしたのと訊く。あれを、と震える指先で示すと、彼
女は首を捻って、なに? と言う。
彼女には見えないらしい。
そして俺の視界からも後ろ姿はゆっくりと消えていった。闇の中へと。
『追跡』から読みとる限り、師匠の行く先とは関係がないようだ。あんなサラッ
と読み飛ばせそうな部分だったのに、俺の肝っ玉はすっかり縮み上がってしまった。
廃工場の黒々としたシルエットが目の前に現れた頃にはすっかり足が竦んで、ホ
ントにこんなとこに師匠がいるのかと気弱になってしまっていた。
「で? 工場についたけど」
崩れかけたブロック塀の内側に入り、彼女が振り向く。続きを読めと言っている
のだ。
俺は震える手でペンライトをかざし、ページをめくる。

  呼びかけに答える声を頼りに、奥へと進む。

そのまま読み進め、心の準備云々の一文が無かったので続けてページをめくる。
本当にこれで師匠を見つけられるのだろうか。
俺は恐る恐る工場の敷地に入って行き、師匠の名前を叫んだ。
トタンの波板が風にたわむ音に紛れて、微かな応えが聞こえた気がする。空っぽ
の倉庫をいくつか通り過ぎ、敷地の隅にあったプレハブの前に立つ。
ペンライトのわずかな明かりに照らされて、スプレーやペンキの落書きだらけの
外装が浮かび上がる。その全面に蔦がからみついて、廃棄された物悲しい風情を
醸し出している。
続く